今回は、「コリントの信徒への手紙二3章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙二3章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙二3章」では、「新しい契約の奉仕者」というテーマで書かれています。

 

まずパウロは、「推薦状」の話から切り出します。

 

(3章1〜6節)・・・

1わたしたちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。

それとも、ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、わたしたちに必要なのでしょうか。 

2わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。

それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 

3あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。

墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。

4わたしたちは、キリストによってこのような確信を神の前で抱いています。 

5もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。

わたしたちの資格は神から与えられたものです。 

6神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。

文字は殺しますが、霊は生かします。

・・・・・・・・・・

 

当時、キリスト教の宣教活動に勤しんでいた使徒たちの中では、自らの正当性を保証するものとして他のキリスト信仰者たちから得た「推薦状」を裏付けにしていたようで、パウロ自身も、「推薦状」の利用を否定する者ではなかったと思われます。

 

ところが、イエス・キリストの直弟子から「推薦状」をもらっていないパウロを正統の使徒と認めないと主張する敵対者が現れたのです。

 

つまり、敵対者たちはパウロに反対するための武器として「推薦状」という慣行を悪用し、言いがかりをつけたのです。

 

そのような背景があって、パウロは下記のように自分にとって必要な「推薦状」とは何かを述べるのです。

 

わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。

それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。 

あなたがたは、キリストがわたしたちを用いてお書きになった手紙として公にされています。

墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です。(3章2〜3節)

 

このように、コリント教会そのものが「推薦状」と同等の役割を果たしているのだから、文字で書かれた「推薦状」は必要ないとパウロは主張しています。

 

ここに記載されている「石の板」とは神様による律法が刻まれた石のことであり、明らかに旧約時代に登場するモーセの十戒を意識した表現です。

 

一方、「人の心の板」とは神様の愛で満たされた霊魂のことであり、新約時代に登場するイエス・キリストの教えを意識した表現です。

 

神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。

文字は殺しますが、霊は生かします。(3章6節)

 

すなわち、旧約時代は神様による律法が重要視されたのに対して、新約時代は神様の霊(愛)が重要視されている点を思い出させるために、あえて上記(3章6節)のような表現でパウロは語ったのだと思います。

 

そして、コリントの信徒たちが生ける「推薦状」となるためには、いつまでも旧約時代の古い考え方に留まるのではなく、新しい契約の奉仕者として信仰に励んでほしいというパウロの切実な願いがここに込められているのです。

 

(3章7〜18節)・・・

7ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、8霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか。 

9人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。 

10そして、かつて栄光を与えられたものも、この場合、はるかに優れた栄光のために、栄光が失われています。 

11なぜなら、消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです。

12このような希望を抱いているので、わたしたちは確信に満ちあふれてふるまっており、13モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 

14しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。

今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 

15このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 

16しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 

17ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 

18わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。

これは主の霊の働きによることです。

・・・・・・・・・・

 

パウロはここで、旧約時代の栄光と新約時代の栄光を比較して、その違いを強調することで、いかに新約時代の栄光が輝かしいものであるかを力説しています。

 

人を罪に定める務めが栄光をまとっていたとすれば、人を義とする務めは、なおさら、栄光に満ちあふれています。(3章9節)

 

旧約時代の務めが「人を罪に定める」ことであるのに対し、新約時代の務めは「人を義とする」ことだと指摘しています。

 

ここでパウロが主張したいことは、旧約時代の問題点です。

 

旧約時代は律法を重視するあまり、罪の意識にがんじがらめに縛られてしまう傾向があった点です。

 

モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、自分の顔に覆いを掛けたようなことはしません。 

しかし、彼らの考えは鈍くなってしまいました。

今日に至るまで、古い契約が読まれる際に、この覆いは除かれずに掛かったままなのです。それはキリストにおいて取り除かれるものだからです。 

このため、今日に至るまでモーセの書が読まれるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。 (3章13〜15節)

 

上記(3章13〜15節)に出てくる「覆い」とは、罪の意識から生じる負の感情であり、神様の霊(愛)を見失った状態を意味します。

 

律法重視によって罪の意識が芽生え、罪の意識が重なれば重なるほど、神様に対する後ろめたさが湧いてきて、神様を愛することよりも神様の裁きを恐れることの方が強くなってしまうのです。

 

後ろめたさや恐れといったものは、負の感情に支配されることであり、霊魂の死と直結します。

 

これらは明らかに神様の望まれる方向とは真逆です。

 

また、パリサイ派・律法学者のように、律法という権威を振りかざして形式主義に陥っている者もおりました。

 

彼らは定められた掟に従って形式的な作法は遵守していましたが、心から神様を愛することを忘れていたのです。

 

人前では、正しく振る舞っているように見せかけて、実は心の中はサタンに支配されている者もいたのです。

 

そんな状況を憂い、彼らの偽善的で形式主義に陥った信仰にNOを突きつけたのがイエス様なのです。

 

神様は、上部だけ取り繕った形式主義や愛の無い従順に辟易されていたのです。

 

しかし、主の方に向き直れば、覆いは取り去られます。 

ここでいう主とは、“霊”のことですが、主の霊のおられるところに自由があります。 

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。

これは主の霊の働きによることです。(3章16〜18節)

 

神様が望まれるのは、私たち人類が罪の意識から解放されることです。

 

負の感情に支配されるのではなく、一筋の心で神様を愛し、霊魂を成長させて常に前向きに生きることです。

 

心と思いと精神を尽くして神様を愛し、神様が望まれる義人となることです。

 

義人とは、負の感情をコントロールできるまでに霊魂を成長させてサタンに打ち勝ち、ポジティブに生きることによって神様の栄光を現す者のことです。

 

義人となることでサタンを滅亡へと追いやり、真の自由を獲得するのです。

 

そして、「人を義とする」のが新約時代の務めであったとするならば、「義人によって地上天国を成就する」こと、すなわち「神様の歴史を成功させる」ことが、成約時代に生きる今の私たちの務めであると言えるでしょう。

 

○RAPT朝の祈り会2024年4月8日(月)

これまでの6000年の神様の歴史は、サタンに完全勝利できる人が現れるまでの歴史だった。これからの1000年間の神様の歴史は、サタンに完全勝利する人が現れ、その人がサタンに完全勝利できる人を次々と作って、彼らと共に神様の栄光をこの地に輝かせていく歴史だ。《参考聖句》ヨハネの黙示録19章

 

 

そのためには、ヨハネの黙示録19章に登場する「白い馬の騎手」が、どなたのことを指しているかを悟らなければなりません。

 

その方の口から出ている鋭い剣は、「神の言葉」であることを悟らなければなりません。

 

その方の考えと心情は、神様の次元と同一のものであることを悟らなければなりません。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介します。

 

○RAPT有料記事827(2024年4月13日)義人たちが中心者の考えと心情をきちんと学び、中心者と同じ考えと心情をもって行うなら、神様の歴史は成功するだろう。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを、以下に転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

去年の11月と12月に何人かの十二弟子候補を選び出し、その後、朝会では彼らに向けて御言葉を伝えるようになりました。
 
しかし、そこに参加した人たちの中に神様の心情に合わない人が数多くいたのでしょう。
 
神様は彼らに向けてとても厳しい裁きの御言葉を連日のように伝えられました。
 
今になって、その頃の御言葉を改めて読んでみると、そこに集まった人たちがどれほど神様の心情を痛めていたかがよく分かります。
 
私たちは一体、何のために神様を信じているのでしょうか。
 
もちろん、私たち自身が祝福と恵みに満たされ、幸福に生きるためではありますが、そのためには先ず私たちの方から、神様が喜ばれるように神様を愛さなければなりません。
 
そのために、神様の考えと心情をどこまでも深く学び、自分自身も神様と同じ考えと心情を持てるようにもがかなければなりません。
 
しかし、このような基本的なことも分からない人が、朝会に何人も参加したことで、朝会の雰囲気は乱れに乱れ、本当の信者たちも彼らから悪い影響を受けて、かえって神様の御心が滞ってしまう事態となりました。
 
このように神様を愛する人の中に神様を愛さない人が混じると、神様の御心が成されるどころか、むしろ神様の御心が破壊されてしまい、義人たちにも大きな害をもたらします。
 
神様はこのようなことを避けるために、人類を羊と山羊とに分けて、羊だけを神様のもとに集めて導き育て、彼らと共に御心を成していかれるのです。
 
**********(転載ここまで)

 

この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。

 

 

聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、神様は、上部だけ取り繕った形式主義や愛の無い従順に辟易されていたことに気づきました。

 

どうか神様、神様の考えと心情をどこまでも深く学び、自分自身も神様と同じ考えと心情を持てるように導いてください。
 

私たちの多くが心と思いと精神を尽くして神様を愛し、神様が望まれる義人となれますことを心から祈ります。

 

負の感情をコントロールできるまでに霊魂を成長させてサタンに打ち勝ち、ポジティブに生きることによって神様の栄光を現す者となれますよう心から祈ります。

 

私たち一人一人が義人となることでサタンを滅亡へと追いやり、真の自由を獲得する者によってこの世が統治されますことを心から祈ります。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

全ての兄弟姉妹がどんな艱難苦難の中にあっても、最後まで忍耐して信仰を守り、一生の間、神様を愛して祝福に満ちた生を生きられますよう心から祈ります。


そして、全ての義人たちの霊魂が天国に引き上げられ、神様が約束してくださった偉大な祝福を余すことなく受けられますよう心から祈ります。


私たちを妨害するサタンと人間サタンが一人残らず滅び去り、多くの人々が救われて、この世に千年王国の歴史が壮大に成されますよう心から祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.4.20)