前回は『新約聖書』に掲載されている「コリントの信徒への手紙一14章」について考察しました。

 

聖書を読む目的は、御言葉を実践に繋げていくためです。

 

単に、知識を得るためだけに終わってしまっては、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

聖書を読むことによって、如何に実践に繋げ、如何に自分の信仰に深みを与えていくかが重要になってきます。

 

単に、物語や歴史的事象を読み解くだけに満足してはいけないのです。

 

如何に己の信仰に活かし、実践していけるかが重要なのです。

 

そのことを、常日頃から教えてくださっているのがRAPTさんです。

 

○RAPT有料記事762(2023年7月29日)全てのよこしまな心をなくし、神様をまっすぐに一筋の心で愛してこそ、真理を無限に悟り、吸収し、サタンに完全に勝利し、偉大な大使徒へと成長できる。

 

 

そのことを念頭に置きながら、今後も聖書紹介に挑んでいきたいと思います。


そこで、今回は、「コリントの信徒への手紙一15章」の本文を紹介したいと思います。

 

コリントは、ギリシアのペロポネソス地方にある都市で、古代ローマ時代には政治の中心地として栄えた所です。

 

コリントの住民としてローマの解放奴隷が入植してきたこともあって、ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が混住する状況の中、イエス・キリストを受け入れる信徒たちによって共同体がつくられました。

 

しかし、現実にはさまざまな問題や困難があったようで、本書簡が書かれた背景には、コリントの共同体の中で不和が生じていたことが挙げられます。

 

コリントの共同体がもめているという話を知らされたパウロは愕然とし、居ても立っても居られない気持ちで、この書簡を綴ることにしたのではないでしょうか?

 

「信仰によって一致してほしい」というパウロの切実な願いと悩みや苦悩を乗り越えようとする彼の熱い思いを感じ取りながら、この書簡を読み進めていきたいと思います。

 

以下は、「コリントの信徒への手紙一15章」の本文のみを掲載することに留め、15章の内容についての考察は、次回、このブログで触れることにしたいと思います。

 

(新約聖書〈新共同訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コリントの信徒への手紙一 15

キリストの復活

1兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます。

これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音にほかなりません。 

2どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。

さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。 

3最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。

すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。 

6次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。

そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。 

7次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、8そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。 

9わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。 

10神の恵みによって今日のわたしがあるのです。

そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。

しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。 

11とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。

 

死者の復活

12キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。 

13死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。 

14そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。 

15更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。

なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。 

16死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。 

17そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。 

18そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。 

19この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。

20しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。 

21死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。 

22つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。 

23ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。

最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、24次いで、世の終わりが来ます。

そのとき、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。 

25キリストはすべての敵を御自分の足の下に置くまで、国を支配されることになっているからです。 

26最後の敵として、死が滅ぼされます。 

27「神は、すべてをその足の下に服従させた」からです。

すべてが服従させられたと言われるとき、すべてをキリストに服従させた方自身が、それに含まれていないことは、明らかです。 

28すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。

神がすべてにおいてすべてとなられるためです。

29そうでなければ、死者のために洗礼を受ける人たちは、何をしようとするのか。

死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のために洗礼など受けるのですか。 

30また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。 

31兄弟たち、わたしたちの主キリスト・イエスに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。 

32単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。

もし、死者が復活しないとしたら、「食べたり飲んだりしようではないか。

どうせ明日は死ぬ身ではないか」ということになります。 

33思い違いをしてはいけない。

「悪いつきあいは、良い習慣を台なしにする」のです。 

34正気になって身を正しなさい。

罪を犯してはならない。

神について何も知らない人がいるからです。

わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。

 

復活の体

35しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。 

36愚かな人だ。

あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。 

37あなたが蒔くものは、後でできる体ではなく、麦であれ他の穀物であれ、ただの種粒です。 

38神は、御心のままに、それに体を与え、一つ一つの種にそれぞれ体をお与えになります。39どの肉も同じ肉だというわけではなく、人間の肉、獣の肉、鳥の肉、魚の肉と、それぞれ違います。 

40また、天上の体と地上の体があります。

しかし、天上の体の輝きと地上の体の輝きとは異なっています。 

41太陽の輝き、月の輝き、星の輝きがあって、それぞれ違いますし、星と星との間の輝きにも違いがあります。

42死者の復活もこれと同じです。

蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、43蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。 

44つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。

自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。 

45「最初の人アダムは命のある生き物となった」と書いてありますが、最後のアダムは命を与える霊となったのです。 

46最初に霊の体があったのではありません。

自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。 

47最初の人は土ででき、地に属する者であり、第二の人は天に属する者です。 

48土からできた者たちはすべて、土からできたその人に等しく、天に属する者たちはすべて、天に属するその人に等しいのです。 

49わたしたちは、土からできたその人の似姿となっているように、天に属するその人の似姿にもなるのです。

50兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。

肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。 

51わたしはあなたがたに神秘を告げます。

わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。

わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 

52最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。

ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。 

53この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります。

54この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。

「死は勝利にのみ込まれた。

55死よ、お前の勝利はどこにあるのか。

死よ、お前のとげはどこにあるのか。」

56死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 

57わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。 

58わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。

主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(コリントの信徒への手紙一15章より)

 

 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.3.13)