前回は『新約聖書』に掲載されている「コリントの信徒への手紙一11章」について考察しました。

 

聖書を読む目的は、御言葉を実践に繋げていくためです。

 

単に、知識を得るためだけに終わってしまっては、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

聖書を読むことによって、如何に実践に繋げ、如何に自分の信仰に深みを与えていくかが重要になってきます。

 

単に、物語や歴史的事象を読み解くだけに満足してはいけないのです。

 

如何に己の信仰に活かし、実践していけるかが重要なのです。

 

そのことを、常日頃から教えてくださっているのがRAPTさんです。

 

○RAPT有料記事762(2023年7月29日)全てのよこしまな心をなくし、神様をまっすぐに一筋の心で愛してこそ、真理を無限に悟り、吸収し、サタンに完全に勝利し、偉大な大使徒へと成長できる。

 

 

そのことを念頭に置きながら、今後も聖書紹介に挑んでいきたいと思います。


そこで、今回は、「コリントの信徒への手紙一12〜13章」の本文を紹介したいと思います。

 

コリントは、ギリシアのペロポネソス地方にある都市で、古代ローマ時代には政治の中心地として栄えた所です。

 

コリントの住民としてローマの解放奴隷が入植してきたこともあって、ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が混住する状況の中、イエス・キリストを受け入れる信徒たちによって共同体がつくられました。

 

しかし、現実にはさまざまな問題や困難があったようで、本書簡が書かれた背景には、コリントの共同体の中で不和が生じていたことが挙げられます。

 

コリントの共同体がもめているという話を知らされたパウロは愕然とし、居ても立っても居られない気持ちで、この書簡を綴ることにしたのではないでしょうか?

 

「信仰によって一致してほしい」というパウロの切実な願いと悩みや苦悩を乗り越えようとする彼の熱い思いを感じ取りながら、この書簡を読み進めていきたいと思います。

 

以下は、「コリントの信徒への手紙一12〜13章」の本文のみを掲載することに留め、12〜13章の内容についての考察は、次回、このブログで触れることにしたいと思います。

 

(新約聖書〈新共同訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コリントの信徒への手紙一 12

霊的な賜物

1兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。 

2あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。 

3ここであなたがたに言っておきたい。

神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

4賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。 

5務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 

6働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 

7一人一人に“霊”の働きが現れるのは、全体の益となるためです。 

8ある人には“霊”によって知恵の言葉、ある人には同じ“霊”によって知識の言葉が与えられ、9ある人にはその同じ“霊”によって信仰、ある人にはこの唯一の“霊”によって病気をいやす力、10ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 

11これらすべてのことは、同じ唯一の“霊”の働きであって、“霊”は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。

 

一つの体、多くの部分

12体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。 

13つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。 

14体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 

15足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 

16耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

17もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。

もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 

18そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。 

19すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 

20だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 

21目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。 

22それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。 

23わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。 

24見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。 

25それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。 

26一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

27あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。 

28神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。

第一に使徒、第二に預言者、第三に教師、次に奇跡を行う者、その次に病気をいやす賜物を持つ者、援助する者、管理する者、異言を語る者などです。 

29皆が使徒であろうか。

皆が預言者であろうか。

皆が教師であろうか。

皆が奇跡を行う者であろうか。 

30皆が病気をいやす賜物を持っているだろうか。

皆が異言を語るだろうか。

皆がそれを解釈するだろうか。 

31あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。

 

そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。

 

コリントの信徒への手紙一 13

1たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。 

2たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。 

3全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

4愛は忍耐強い。

愛は情け深い。

ねたまない。

愛は自慢せず、高ぶらない。 

5礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。 

6不義を喜ばず、真実を喜ぶ。 

7すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

8愛は決して滅びない。

預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、9わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 

10完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。 

11幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。

成人した今、幼子のことを棄てた。 

12わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。

だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。

わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。 

13それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。

その中で最も大いなるものは、愛である。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(コリントの信徒への手紙一12〜13章より)

 

 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.2.23)