前回は『新約聖書』に掲載されている「コリントの信徒への手紙一8章」について考察しました。

 

聖書を読む目的は、御言葉を実践に繋げていくためです。

 

単に、知識を得るためだけに終わってしまっては、宝の持ち腐れになってしまいます。

 

聖書を読むことによって、如何に実践に繋げ、如何に自分の信仰に深みを与えていくかが重要になってきます。

 

単に、物語や歴史的事象を読み解くだけに満足してはいけないのです。

 

如何に己の信仰に活かし、実践していけるかが重要なのです。

 

そのことを、常日頃から教えてくださっているのがRAPTさんです。

 

○RAPT有料記事762(2023年7月29日)全てのよこしまな心をなくし、神様をまっすぐに一筋の心で愛してこそ、真理を無限に悟り、吸収し、サタンに完全に勝利し、偉大な大使徒へと成長できる。

 

 

そのことを念頭に置きながら、今後も聖書紹介に挑んでいきたいと思います。


そこで、今回は、「コリントの信徒への手紙一9章」の本文を紹介したいと思います。

 

コリントは、ギリシアのペロポネソス地方にある都市で、古代ローマ時代には政治の中心地として栄えた所です。

 

コリントの住民としてローマの解放奴隷が入植してきたこともあって、ギリシア人、ローマ人、ユダヤ人が混住する状況の中、イエス・キリストを受け入れる信徒たちによって共同体がつくられました。

 

しかし、現実にはさまざまな問題や困難があったようで、本書簡が書かれた背景には、コリントの共同体の中で不和が生じていたことが挙げられます。

 

コリントの共同体がもめているという話を知らされたパウロは愕然とし、居ても立っても居られない気持ちで、この書簡を綴ることにしたのではないでしょうか?

 

「信仰によって一致してほしい」というパウロの切実な願いと悩みや苦悩を乗り越えようとする彼の熱い思いを感じ取りながら、この書簡を読み進めていきたいと思います。

 

以下は、「コリントの信徒への手紙一9章」の本文のみを掲載することに留め、9章の内容についての考察は、次回、このブログで触れることにしたいと思います。

 

(新約聖書〈新共同訳〉より抜粋)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

コリントの信徒への手紙一 9

使徒の権利

1わたしは自由な者ではないか。

使徒ではないか。

わたしたちの主イエスを見たではないか。

あなたがたは、主のためにわたしが働いて得た成果ではないか。 

2他の人たちにとってわたしは使徒でないにしても、少なくともあなたがたにとっては使徒なのです。

あなたがたは主に結ばれており、わたしが使徒であることの生きた証拠だからです。

3わたしを批判する人たちには、こう弁明します。 

4わたしたちには、食べたり、飲んだりする権利が全くないのですか。 

5わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たちやケファのように、信者である妻を連れて歩く権利がないのですか。 

6あるいは、わたしとバルナバだけには、生活の資を得るための仕事をしなくてもよいという権利がないのですか。 

7そもそも、いったいだれが自費で戦争に行きますか。

ぶどう畑を作って、その実を食べない者がいますか。

羊の群れを飼って、その乳を飲まない者がいますか。 

8わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。

律法も言っているではないですか。 

9モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。

神が心にかけておられるのは、牛のことですか。 

10それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。

もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。

耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。 

11わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。 

12他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。

しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。

かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。 

13あなたがたは知らないのですか。

神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。 

14同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。 

15しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。

こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。

それくらいなら、死んだ方がましです……。

だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。 

16もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。

そうせずにはいられないことだからです。

福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。 

17自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。

しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。 

18では、わたしの報酬とは何でしょうか。

それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。

19わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。

できるだけ多くの人を得るためです。 

20ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。

ユダヤ人を得るためです。

律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。

律法に支配されている人を得るためです。 

21また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。

律法を持たない人を得るためです。 

22弱い人に対しては、弱い人のようになりました。

弱い人を得るためです。

すべての人に対してすべてのものになりました。

何とかして何人かでも救うためです。 

23福音のためなら、わたしはどんなことでもします。

それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。

24あなたがたは知らないのですか。

競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。

あなたがたも賞を得るように走りなさい。 

25競技をする人は皆、すべてに節制します。

彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。 

26だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。 

27むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。

それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(コリントの信徒への手紙一9章より)

 

 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.1.30)