今回は、「コリントの信徒への手紙一8章」の内容について考察したいと思います。

 

但し、充分慎重に考察する必要があることを肝に銘じたいと思います。

 

もし非真理を伝えてしまった時に、神様がお怒りになるのは勿論のこと、RAPTさんや十二弟子の皆さん及び兄弟姉妹の皆さんに、多大な迷惑をおかけすることになります。

 

ここは慎重に、自分の文章を何度も読み直して、できる限り非真理が混じることのないように努めていこうと思います。

 

どうか神様、このブログを書き進める中で、少しでも非真理が入り込んでしまった時は、すぐに気づくことができるように導いてください。

 

もし、非真理が混ざり込んでいたことに気がついた場合には、悔い改めてすぐに訂正します。

 

どうか私の霊魂を真理で充満させて、神様の御心に適った文章が書けるよう導いてください。

 

神様の恵みと正しい導きがあることを信じて、ここから本題に入って行きたいと思います。

 

前回、このブログで「コリントの信徒への手紙一8章」の本文を掲載しましたので、その本文を傍らに置きながら皆様も、お付き合いの程よろしくお願いします。

 

「コリントの信徒への手紙一8章」では、「偶像に供えられた肉」というテーマで書かれています。

 

まず最初に、パウロは信仰によって得た知識について語ります。    

 

(8章1〜3節)・・・

1偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。

ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。 

2自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。 

3しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。 

・・・・・・・・・・

 

ここで目を引くのは、(8章1節)「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」という聖句です。

 

知識を得たことによって高慢になり、それによって霊魂が冷え込み、愛を忘れてしまっては何のための信仰か分からなくなってしまいます。

 

愛があってこそ、その知識に温かい血液が流れ込み、次元の高い霊魂を造り上げることができるのです。

 

愛は神様と直結します。

 

愛がなければ、神様に知られることはなく、恵みと祝福を受けることもないのです。

 

なので私たち信仰者は、一時的に知識を得たからといって自己満足で終わってはいけないのです。

 

むしろその知識を、どうしたら第三者が受け入れてくれるようになり、各自の霊的な成長につなげることができるかに心血を注ぐべきなのです。

 

(8章4〜6節)・・・

4そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。 

5現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、6わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。

また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

・・・・・・・・・・

 

「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識を、私たち信仰者は知っています。

 

しかし、かく言う私自身も、かつては偶像を崇拝しておりました。

 

毎朝、仏壇に手を合わせ、葬儀や法事の際には仏壇に備えられたものを食し、合格祈願、結婚祈願、出産祈願、交通安全祈願等々、ご利益がある所なら何のためらいもなく神社巡りに奔走しておりました。

 

生まれた時から何の疑問を持つこともなく、むしろそれらの事に精通していることが大人の証明であるかのような感覚で育ってきたのです。

 

しかし、RAPT理論に出逢ってから、その認識が変わりました。

 

先祖代々伝わってきた宗教的な行事や慣習について調べてみると、それらのほとんどが悪魔崇拝につながっていることを知ったのです。

 

そして、仏壇や神棚に祀られている仏像、曼荼羅、位牌、お札、お守りといった類のものは、全て偶像であることに気づきました。

 

過去の自分を顧みると、神社仏閣をお参りする目的は、己の肉的な欲望を叶えるための現世利益であり、他人の幸福や人類の平和を願って手を合わすという敬虔な気持ちは、ほとんどありませんでした。

 

RAPTさんの「御言葉」を知るまでは聖書を読んだこともなく、神様の存在や、神様によって万物が創造され、私たち人類が誕生したことなど、本当に知るべきことを知らず、真剣に考えたこともなかったのです。

 

今から思うと、何と次元の低い人間だったことかと恥ずかしくなりますが、本当に知るべき知識へと導いてくださったRAPTさんには感謝しかありません。

 

「唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行く」ことを知った今、もはや偶像に手を合わすことはなくなりました。

 

偶像崇拝が罪であることを知ったからです。

 

では、偶像に供えられたものを食べる事について、パウロはどのように言っているでしょうか?

 

(8章7〜13節)・・・

7しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。

ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。 

8わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。

食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。 

9ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。 

10知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。 

11そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。

その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。 

12このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

13それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。

・・・・・・・・・・・

 

偶像に供えられた食べ物であろうと、なかろうと、食べ物は食べ物です。

 

仏壇や神棚に供えられた食べ物自体に罪があるわけではありません。

 

例えば、仏教や神道のことを何も知らない幼子が仏壇や神棚に供えてある食べ物を発見した時のことを想像してみましょう。

 

その時その幼子は、「しめしめ、美味しそうなものを見つけたぞ」と、冷蔵庫に置かれてある食べ物と同じ感覚で、思わず仏壇や神棚に供えてある食べ物を手に取って食べようとするのではないでしょうか?

 

その時のその幼子の心の中は、仏壇や神棚に供えてあるものという認識は全く無く、只々その食べ物を食べたいだけで、その食べ物に宗教的な意味合いを感じて食べたいわけではないのです。

 

それと同様のことが、クリスチャンにも言えます。

 

クリスチャンにとってその食べ物は、たまたま仏壇や神棚に置かれているだけのことであって、冷蔵庫に置かれている食べ物と何ら変わりないものです。

 

食べ物はどこに置かれていようとも、食べ物は食べ物であって、それ以上でもそれ以下でもないのです。

 

食べ物自体に罪があるわけではないのです。

 

但し、その食べ物を宗教的な意味合いで捉えた時に、ただの食べ物という話で済まされない事態に変容します。

 

その食べ物を宗教的フィルターを通して見た時、その食べ物は、ただの食べ物ではなくて、特別な食べ物として映るのです。

 

仮に、仏壇に供えてある食べ物を誰かから与えられたとしましょう。

 

その時、宗教的フィルターを通さなければクリスチャンがそれを食べても、本来なら罪に問われるものではないのです。

 

しかし、その食べ物が偶像崇拝のための供え物という認識が心の中に入った途端、その食べ物は、ただの食べ物でなくなるのです。

 

その食べ物は、宗教的意味合いのある特別な食べ物に変貌するのです。

 

その食べ物を純粋無垢な状態で食べることができず、罪の意識が芽生えるのです。

 

そのような心理状態で仏壇の供え物を食べるのであれば、それは罪となるのです。

 

偶像崇拝の作法に同化したということで、その人の良心が汚されるのであれば、それは罪となるのです。

 

そしてその罪は、自分だけでなく周りの信者にも影響を与えてしまうのです。

 

このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。

それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。(8章12〜13節)

 

パウロが忠告しているように、兄弟姉妹の良心に傷をつけることは神様に対して罪を犯すことになるのです。

 

なので私たち信仰者は、神様のためにも、兄弟姉妹のためにも、そして自分のためにも、偶像に供えられた食べ物を食べるという行為は極力避けるべきなのです。

 

そして、真理を知った私たち信仰者は、間違った知識と偽りの愛をすべて排除し、正しい知識と愛のある行動を通して、真に幸福な生き方を示していく必要があるのです。

 

ここで、RAPTさんの「御言葉」を紹介させていただきます。

 

○RAPT有料記事545(2021年3月22日)世の中には間違った知識と愛しかないから、それらを手に入れても気が狂うだけだ。しかし、主の与える知識と愛は本物だから、それらを手に入れた分だけ幸せになれる。

 

 

この「御言葉」の冒頭部分だけを転載させていただきます。

 

ここから転載)**********

 

この世の人々は多くの知識を求めて生きていますが、この世に溢れている知識はほとんど全てサタンがばらまいた知識なので、それを手に入れても賢くなることはできず、むしろ頭が混乱し、気が狂います。
 
また、この世の人々は多くの愛を求めて生きていますが、この世に溢れている愛はほとんど全てサタンがばらまいた愛なので、それを手に入れても心は満たされず、むしろありとあらゆるものを吸い尽くされて、すっからかんになって終わりです。
 
ですから、この世でより多くの知識や愛を手に入れて生きたとしても、決して幸福になることはできず、むしろ不幸になるばかりです。
 
しかし本当の真理と愛は、神様から出てくるものなので、それを手に入れた分だけ真の幸福を手にすることができ、感謝と喜びの中で生きられるようになります。
 
未だに私たちの中に非真理で惑わし、偽物の愛で惑わそうとする者が後を絶ちませんが、私たちはサタンの巧妙な罠をすべて見抜いて、偽りの知識と愛をすべて排除し、本当の真理と愛で自分を満たし、真に幸福な生を生きていかなければなりません。
 

 **********(転載ここまで)

 

この話の続きを知りたい方は、直接、有料記事をご購読ください。

 

 

聖なる神様、ありがとうございます。


聖書とRAPTさんの「御言葉」のお陰で、愛があってこそ、その知識に温かい血液が流れ込み、次元の高い霊魂を造り上げることができることを悟りました。

 

私たち信仰者は、一時的に知識を得たからといって自己満足で終わってはいけないのです。

 

むしろその知識を、どうしたら第三者が受け入れてくれるようになり、各自の霊的な成長につなげることができるかに心血を注ぐべきなのです。

 

そして、真理を知った私たち信仰者は、間違った知識と偽りの愛をすべて排除し、正しい知識と愛のある行動を通して、真に幸福な生き方を示していく必要があるのです。

 

どうか神様、神様から戴いた知識を世の人々が受け入れ、各自の霊的な成長に繋げることができるように導いてください。

 

「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」という知識を多くの人々が受け入れられるように導いてください。

 

この世が、無神論の世界から神様を信じる世界へと変わっていくことを心から願います。

 
神様を信じることが当たり前の世界に変わっていくことを心から願います。

 

「御言葉」を受け入れた私たち一人一人が、本物の真理、本物の愛を伝える使命者となれますよう心から祈ります。

 

間違った知識と偽りの愛をすべて排除し、正しい知識と愛のある行動を通して、真に幸福な生き方を示していく者となれますよう心から祈ります。

 

多くの人々が、RAPTさんこそが真の中心者であり、神に遣わされた人であることを心底悟れるようにしてください。


中心者の語る一言一言が宝だと思って学び、深く悟れるようにしてください。

 

全ての罪を悔い改めて「御言葉」に従って実践すれば、今この時代における神様の裁きに巻き込まれることなく、霊的にも肉的にも救われることを実感させてください。

 

RAPTさんの「御言葉」に出会った多くの人たちが、よこしまな心を取り除いて、一筋の心で神様を愛し、無限に真理を吸収して、サタンに完全に勝利し、この世の多くの人々を救う大使徒へと成長していきますことを心から祈ります。

 

RAPTさんが聖なる神様を体現し、私たちを導く希望の光となり、永遠に輝き続けられますことを心より祈ります。

 

そして一刻も早く、私たち一人一人の祈りの力によって、悪人とサタンをことごとく滅ぼし、この世に義なる世界を打ち立てて、地上天国が成されますことを心から祈ります。

 

これら全てのことに感謝して、愛する主の御名によって祈ります。

 

アーメン ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 

皆様に祝福がありますように。

 

(2024.1.28)