「人に対して、懐疑心を持つ」ということは、今の世の中を生きる上においては、自己防衛という観点からすると、極めてあたり前の観念であると、前回書きました。
つまり、余りにも荒廃した世の中となり、神を信じることさえ、ままならない時代に生きている以上、「人に対して、懐疑心を持つことは、善である」と見なさざるを得ない、ということです。
そのことを補足する意味で、今回は自己防衛の観点とは違った、別の観点から考察してみることにします。
特に今日取り上げたいことは、人間がつくり出した物やシステムについて、懐疑心を持つことは善か悪かという問題です。
人間がつくり出した物やシステムは、その時代の先導者にとって必要とされ、欲望を満たしてくれるものとして生み出されたものですから、言わば人間の想念の結集が形にして出されたものと言えます。
まさに、それは「人間そのもの」と考えて良いと思います。
そして、「人間そのもの」である物やシステムは、当然、社会生活に大きな影響力をもたらすものだと言えましょう。
よって、単純に考えても、悪なる人間がつくり出した物やシステムは、自ずと社会生活に悪影響を与え、いつか何処かで破綻してしまうことは目に見えています。
いくら、そこで暮らす人々が、その社会システムに「誠実さ」を持って、順応していこうとしても、そのシステム自体に欠陥がある場合、その「誠実さ」は、無駄になるばかりか、かえって悪となり得るのです。
その事について、山口周氏は、自著の本の中で、次のように述べられています。
(ここから、転記)ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
アイヒマンは、ナチスドイツにおけるユダヤ人虐殺において、数百万人に上ると言われるユダヤ人を逮捕し、勾留し、移送し、処理するための効率的なシステムを作るにあたって主導的な役割を果たしました。アイヒマンは、戦後、アルゼンチンで逃亡生活を送っていたところを、イスラエルの工作員に拿捕されてイスラエルに連行され、最終的にそこで絞首刑になっています。
この裁判において、アイヒマンは度々、「自分は命令に従っただけだ」という抗弁を繰り返しました。ユダヤ人虐殺をするための仕組みを構築し、それを運営したのは、単に所属する組織の規則や命令に従ったまでで、自らの意思としてこれをやったわけではない、というわけです。この論理に拠って、アイヒマンは徹底して無罪を主張しました。
結局は前述した通り、絞首刑に処されるわけですが、「組織の命令に従っただけ」というアイヒマンの抗弁に対して、ひとかど以上の共感を覚える日本の組織人は少なくないのではないでしょうか。
(中略)「誠実さ」という概念を、所属する組織や社会のルールや命令に実直に従うことだ、と解釈した場合、その「誠実さ」ゆえに罪を犯し、身の破綻を招いたわけです。
どうでしょう、このように考えてみると、絶対善と考えられる「誠実さ」という概念は、その拠り所となる規範次第によっては極め付きの犯罪行為を駆動させる動力源にもなりうるのだということがわかります。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(ここまで、「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか?」より、一部抜粋)
以上のように、システムを無批判に受け入れることは、それ自体で「罪」になり得るということがわかります。
そのシステム下において、組織人として、その規範に準じて「誠実さ」を前面に出してしまう行動は、悪となり得るということです。
この度の、コロナパンデミックへの対処の仕方についても、同じことが言えないでしょうか?
私たち組織人が、良かれと思っている、その「誠実さ」が、悪となっていないか?
冷静に判断する必要があると思います。
私たちは、この「誠実さ」というものと、どのように向き合っていけば良いのでしょうか?
この話の続きは、次回にします。
(2020.5.10)