伊黒邸で柱稽古を開始して三日。本来なら稽古一日目で伊黒の羽織を多数切り付けていて稽古終了となっていたのだが、直ぐに終わりとはいかなかった。他の柱の時と同様数日稽古を付けてもらうことになった。
伊黒邸には自身の家から通っていて、稽古が終われば自分の家に戻り、朝を迎えたら伊黒邸に稽古に……そんな一日の流れを繰り返していた。元々伊黒とはある程度話はしても、それ以上でもそれ以下でもない間柄で、他の柱と違いあっさりとした関係であるが、吹雪はそれに対して特に思うところはない。
稽古三日目の稽古終わりに引き留められ、何故か甘露寺を交えての食事会へと連れて行かれた。
どうやら甘露寺から吹雪との稽古はどうなのかと質問をされ、「至って普通に雪代は熟している」とだけ話していたようだが、休憩中は何を話しているのか、稽古終わりにはどうしてるの等色々と質問されていたらしく、返答に困り果て仕方なく食事会という流れになったそうだ。
「――今日は楽しかったわ!まさか吹雪ちゃんも一緒だなんて思ってもなかった!」
「雪代と喋り足りないと言っていただろう。俺にあれこれ聞くより本人に直接聞いた方が早いからそうしただけだ」
甘露寺と伊黒が話すのを二人の後ろから吹雪は眺めていた。よく二人が話している姿は見かけていたし、特にどうと思ったことはない。だが……。
(あ――そうか、この二人……)
確か甘露寺と伊黒は文通をしていたはず。よく話す程度に仲が良いだけとも受け取れるが、伊黒は甘露寺を悲しませるとか甘露寺が望んでいることは優先しろとか……気に掛けている言動が窺える。
(自覚があるかは分からないけれど、きっとお互い想い合ってるんだろうな……)
それなら二人の食事会に参加していた自分はお邪魔だったのではないか。それに今も二人仲良く話しているし、このまま去った方がいいだろう。それに……二人を見ているとふと冨岡の事が頭をよぎった。今彼は何をしているのだろう。
(二人のお邪魔しないように去って義勇さんの様子を見て帰ろう――)
悟られないよう気配を消してその場から立ち去り、宙に氷の足場を発生させながら冨岡の屋敷まで移動を開始する。
「吹雪ちゃん!今度は私、と……?」
後ろを振り返ってみると吹雪の姿はなく、甘露寺は辺りを窺う。
「吹雪ちゃん?吹雪ちゃーん!」
「……雪代のやつ、甘露寺になんの断りもなく帰るとはいい度胸だ!明日地獄を味合わせてやる!」
* * * * * *
冨岡の屋敷前に降り立った吹雪は屋敷内に冨岡の気配を感じ、門前で声を張る。
「――義勇さん!雪代です!中に入っても宜しいですか?」
声が聞こえたのだろう。気配が動いて門前に向かって来る。扉が開き、冨岡が姿を見せる。
「……吹雪」
「訪ねて大丈夫でしたか?柱稽古でお忙しいとは思ったのですが、義勇さんの顔を見たいと思って……」
「大丈夫だ。……上がっていくといい」
「はい、お邪魔致します」
中に案内され、居間でゆっくりとお茶と甘味を味わっていると冨岡が吹雪の顔をジッと見つめてくる。それに気付いた吹雪は慌てて弁解をする。
「稽古で何かあったわけではありませんから!本当に義勇さんの顔を少し見に来ただけで、本当に!…………あ、あの……だ、だめでしたか……?」
「いや」
いつになく早い反応で即答する冨岡に驚きつつも吹雪は安心した。甘露寺や伊黒を見ていたら会いたくなったなんて――そんなことは恥ずかしくて言えないが。
合間があれば会いに来るとは言っていたが、柱稽古は今までと違い合間が出来る程優しいものではない。もう日が沈んでいるとはいえ、稽古の疲れを癒しに誰もが家に真っ直ぐに帰ると思うが、吹雪はそんな中でも冨岡の元に顔を見せに来てくれた。
しかも――。
――あ、あの……だ、だめでしたか……?
そんなことをしょんぼりとしながら言う吹雪の姿は初めてだった。近付き難い雰囲気を醸し出していた知り合った当初、話すようになって少しずつ心を開いてくれていることは感じつつもまだ何処か距離を取ってこちらを窺う素ぶりを見せていた。
しかし、柱稽古の前。互いに想い合っていることを打ち明けてからは冨岡の事を受け入れたこともあるのか以前にもまして可愛らしくなったというか。先程のもそうだが、あんなことを言われたらひとたまりもないかもしれない。……事実、冨岡も即座に反応してしまった。自分ではなく他の男性と親しくなっていて今の姿を見せていたらと思うと、それはそれで気持ちの良いものではなく不快だ。
吹雪が湯呑みに手を伸ばしたのに合わせ冨岡も吹雪の手に手を伸ばし、重ねる。ビクッとした吹雪だったが手を引っ込めたりはしなかった。顔を見るとほんのりと頬を染めて目線を泳がせていた。
……ああ、本当に可愛らしいな。
「……生きて戻って、本当の意味で終わりになったら吹雪の生家に行こう」
「え?」
「吹雪の両親、家族に話がある」
「……家族の墓前に、ですか……?」
「ああ」
鬼との戦いが終われば鬼殺隊はもう必要ない。家族、大切な人の仇である鬼が居なくなれば誰もが“復讐”なんて縛りから解放され、それぞれの道を歩んで行けるようになる。鬼を倒すことだけに生きていくつもりだったなら、その後どうしていいのか分からなくなりそうだが生きていれば何とかなるだろう。吹雪も冨岡も――ただの女性と男性になる。
鬼殺隊が解散となった後のことなんて冨岡には分からないが、ただ一つはっきりしていることがある。それは吹雪と共に生きていく事。それだけは決めている。
吹雪は自分の存在は人ではないから、冨岡と居ても迷惑しか掛けないから離れようとするだろうが離すつもりはない。例え自分が人の身でなくなろうとも吹雪と添え遂げたい。
「それと……改めて烏天狗に話もしたい」
「天狗さんにもですか?」
「以前会った時に話はしたが、改めて話をしたいと思っている」
冨岡が烏天狗に何を話したいというのか分からず首を傾げる吹雪の姿に、家族の墓前や烏天狗に自分が何を言おうとしているか知った時彼女がどんな反応をするのか――その時が楽しみだと思う冨岡だった。
* * * * * *
次の日、吹雪が伊黒の元を訪ねると昨日急に姿を消した事にご立腹で、「甘露寺に謝れ」といつになく殺気立って稽古を付けられた。とはいえこてんぱんにされた訳ではないので、上手く誤魔化して宥めることは出来た。そしてもう十分だろうと次の柱の元に行くようにと許可を貰った。
伊黒の次に訪ねた柱は風柱の不死川。不死川の屋敷に辿り着き、音のする方へと歩を進める。おそらく道場の方だとは思うが――。
「…………(えっと……伊黒様とはまた違った処刑場かしら……)」
括られているわけではないが、木刀で叩かれて気を失ってるのがその場に倒れている鬼殺隊員が沢山いる。……これは後で顔とか腫れるやつだな。
「――来たかァ。雪代」
倒れ伏している隊員達が足元に転げている中立ち尽くしている不死川が吹雪を振り返る。
「訓練は単純だ。俺に斬りかかる単純な打ち込み稽古だ。まあ、雪代には何の心配もいらねェだろうがな」
「打ち込み稽古ですね。分かりました。不死川様に一本入れたら終わり、というものでもないのですよね?」
「そうだな。雪代には俺が満足するまで稽古に付き合ってもらうぜ。他の奴のところでも何日かいたんだろ?」
「そうですね。四〜五日は稽古を付けて頂いてました」
「なら俺もそのくらいの日数でいくぜェ。根を上げるなよ?」
「はい。宜しくお願い致します」
稽古を始める前に吹雪に木刀を手渡し、程よい距離を空けて双方構える。
意識のある隊員達は吹雪の身を心の底から案じた。女性相手とはいえ不死川が手加減をする筈がないし、男の自分達ならまだいいが、あんな色白で綺麗な顔が腫れたりするのを純粋に見たくない。身体中に痣が出来るのも流石に止めてもらいたいが、訓練であれば致し方ないと諦めるしかない。……普通に女性相手に傷を付ける行為そのものをやめて欲しいというのが倒れ伏す隊員達の総意ではあるが。
緊張が走る吹雪と不死川の間に木刀同士がぶつかる乾いた音がした。それから目で追うのも難しい速さで木刀を交え、二人が動き、互いに交わし合い攻め立てる。と、吹雪が不死川の喉に向けて突きを繰り出した。直撃したかと思われたが寸でのところで木刀の柄部分で防ぎ突かれた勢いで後方に吹っ飛ばされるが、地面を滑るようにして止まる。
「……やっとまともな打ち合いが出来そうだなァ」
「買いかぶり過ぎですよ」
そうは言いつつも涼しい顔で不死川相手に互角でやり合っている。
⦅こ、この人も化け物だ……⦆
自分達は見るも無残な痣に腫れた顔だが、吹雪がそんな姿になることはないと隊員達は心の中で呟いた。次元の違う打ち合いが目の前で繰り広げられ、自分達はいつ次の柱の元へ行くことが出来るのか現実逃避するように気を失ったふりを続けることにした隊員達であった。
* * * * * *
休憩無しの打ち込み稽古だったが、吹雪は平気だった。烏天狗との修行に比べればなんてことはないし、足場の悪いところでやることが多かったから平坦はかなりやり易かった。
不死川から「今日はここまでだ」と言われ帰り支度をしていたのだが、不死川に屋敷内へと付いて来るよう言われた。屋敷内の一つの部屋に通され「待ってろ」と言われたので待っていると、抹茶とおばぎの匂いがした。そして目の前にそれらが出され、不死川の前にも同じものがある。
「あ、あの……?」
「やるよ。打ちっぱなしだったからな」
あ、休憩なしでやってたからお詫びにってことかな……?
「宜しいんですか?」
「あァ」
「ではご相伴させていただきます」
その返答に満足したのか、不死川はおはぎを食べ始める。その姿に微笑ましさを覚えながら吹雪もおはぎと抹茶を頂く。
「美味しいです。ずっと動きっぱなしだったのでより美味しく感じますね」
「…………悪かった」
「いえ、謝ってほしいわけでは……」
「……他のヤツは打ちっぱなしでいいが、雪代は昼抜けていいぜ。昼飯用意しといてやる」
「大丈夫です!他の隊員達が稽古しているのに私だけそんな……!」
「同じ隊員とはいえ女の雪代にまで強いることじゃねェ。身体共に休むことも必要だ。いらねェからって稽古に出ようもんなら引っ込めるぞ」
「……分かりました」
吹雪の返答に満足したのか、残りのおはぎを口の中に放り込む。その様子を眺めていた吹雪は小さく肩を落とす。
おそらく弟の氷弥の件で気を遣ってのものだとは思うが、本当にもう大丈夫だというのになんだか妙な気分だ。無理をして元気な姿を見せていると思われているのだろうか。
(本当に大丈夫なんだけどな……)
無理をしているわけではない。ちゃんと踏ん切りを付けてこうして柱稽古に参加していて、宇随も時透も甘露寺も伊黒も気にはしていたかもしれないが不死川みたいに「ちゃんと休め」と言うことはなかった。……いや、無一郎は無理していると分かれば止めると言っていたか。
(心配してくれるのは嬉しいけれど、ちょっと複雑……)
抹茶を口にしてそんなことを考えていると、不死川が吹雪の隣に移動してきた。
「……弟のことは聞いてる。残念だったな」
「その事を気にして、休息を取れと仰ってるんですね。ちゃんと気持ちの整理は出来ていますし、自暴自棄になっているわけでもありません。ですから大丈夫なのは本当です」
「それは見れば分かる。雪代が無理してねーことくらい。……だがなァ、周りが言わねーと休むこともしねェのは確かだろ?だからそうしたまでだ」
不死川は吹雪の頭をガシッと優しく掴みぐりぐりと押さえ付ける。
「それで丁度いいだろ」
「…………」
「あァ?なんか言いたそうな顔だな」
「いえ。やはり不死川様は優しいお兄さんですね。弟の玄弥くんにも同じように接してあげれば、不死川様の気持ちも伝わり易いと思います」
吹雪は頭に置かれた不死川の手を取り、もう片方の手も添えて両手で包み込み不死川の目を見ながら言った。
「私は弟が幸せに生きてくれるなら嫌われてようが憎まれてようが良かった。だけど、弟は「ずっと謝りたかった、一緒に暮らしたかった」と最後に言ってました。やっとしこりが無くなって歩み寄れたのが弟が消える間際……もっと早くこうなっていれば――後悔しました。自分を責めました」
吹雪は両手に少し力を入れた。
「ですが……周りの方々や家族のおかげで前を向いて立ち上がることが出来ました。要らないお節介だとは思います。ですが、不死川様は同じ鬼殺隊に弟の玄弥くんがいます。近くに大事な家族が居て、生きているんです。溝があるなら早目に埋めて歩み寄ってあげて下さい。私みたいにならないんでほしいんです!」
つい熱が入りぐっと不死川に詰め寄ると不死川は身体を硬くし少し動揺する。
「おい」
「先程私に接したように玄弥くんと話してあげればちゃんと伝わります。彼も不死川様と話したくて鬼殺隊に入隊したようですし、ちゃんと話して――」
「分かった!分かったから距離!!」
「え?……も、申し訳ありません!つい熱が入ってしまい……」
不死川が吹雪の隣に居たこともあり、吹雪と不死川の顔の距離は拳二つ分の間。吹雪は不死川の手を離し少し距離を取って頭を下げる。不死川は頭を下げる吹雪に少し背を向けるようにして左胸に手を当てて呼吸を整えていた。
(し、心臓にわりィ……!)
あんな至近距離で吹雪の顔を見たのは初めてだ。いつになく心臓の鼓動が速くて耳辺りが煩い。それに身体も熱い。
「本当に申し訳ありません!あの……」
「大丈夫だ。また明日も稽古なんだ。さっさと帰ってゆっくり休め。器はそのままにしとけ、俺が片しとく」
「は、はい」
吹雪は申し訳なさからそそくさと部屋から立ち去っていく。
「――ふうぅー…………」
部屋から吹雪が遠ざかった途端、不死川は手を後ろに投げ出して天井を仰いだ。頬や耳にかけて赤みが差しており、舌打ちをする。
「急に詰めてくんなァ……」
吹雪と知り合ってからある程度離れた距離でしか見てこなかった彼女を、至近距離で見る日がくるとは思ってなかった。外観から大人しそうにみられることが多いが、言うことは言うし男顔負けの実力で、基本表情が読みにくくて近寄りがたい雰囲気を出しているから距離を取られることが多い。だがそれなりに親しくなると笑顔を見せてくれるし、しっかりしているようにみえて案外抜けていたり意外な一面も見られる。それあってかこっちが少し心配になるくらいだ。
色白で薄い水色髪だが白髪に思われることがほとんど。凛としている時は綺麗さが目立ち、少し抜けていたり笑顔を見せる時は可愛らしさがあって普段との違いで吹雪に好意を持つ者もいるらしい。筆頭は周りも認めている程の心酔っぷりの小平真一隊員。……まあ、殴られても蹴られても嬉しさで悶絶する彼には少々引くことはあるが。
吹雪が綺麗さも備えた可愛らしい女人なのは不死川も認めている。遠目で見ていても目を引く程だ。話すこともあり意外と抜けているのを目の当たりにした時は呆然としたものだ。こいつ大丈夫なのかと。それがきっかけでついつい気にして目で追っていたり、何かに巻き込まれてそうな時は偶然を装って話し掛けたこともある。
それに自分と似た境遇がより吹雪に対して親近感を抱かせた。似た者同士理解が出来る、それがいつしか不死川の内側に吹雪を植え付け特別視する要因になった。
「…………」
今でも心臓の鼓動が治まらない。もう少しあのままの近距離に居たら自分が吹雪になにかしていたかもしれない。自分の手に優しく触れた吹雪の手の感触が消えない。温かくて、柔らかかった。自分を心配そうに見つめる吹雪の瞳は綺麗だった。頭に触れた時に触れた髪は艶やかで指通りがいいのではと思う程さらさらだった。そしてなにより――いい匂いがした。落ち着く優しい匂いが。
「クソッ……!」
今自覚してなんになると不死川は思った。吹雪のことを異性として好いていると分かってどうすると思うが、自覚した途端欲が湧いてくる。独り占めしたい――自分がただの人間の男だというのがよく分かる独占欲だ。まさかそんな感情を自分が持つとは……。
(今どうこうする気はねェ……何もかも終わって俺が生きてたらでいいだろうが)
最終決戦に向けての柱稽古中だ。意識を逸らすな、集中しろ。
もう一度長く息を吐き、自身を落ち着かせる。これで大丈夫だ。食器を片し、すべきことをして床に入った。
そして次の日、稽古を始めたはいいがやはり吹雪の姿を見ると揺らぐものがあり、時に射抜かれるような衝撃に座り込むこともしばしばあり、吹雪に心配される不死川であった。
* * * * * *
稽古帰り、帰路についていると吹雪の家がある方向から冨岡が歩いてくるのが見えた。吹雪が声を掛けると冨岡は一瞬驚いたような表情になるが、直ぐに柔らかな笑みを浮かべる。
「義勇さん、どうしてここに?」
「……吹雪と話したいと思った」
「それで私の家に?」
頷く冨岡はスゥッと手を差し出してくる。その手と冨岡の顔を交互に見る。
「……帰るんだろう?」
「……は、はい」
遠慮がちに冨岡の手に自分の左手を重ねる。冨岡を見れば静かな表情をしていても瞳は真っ直ぐ吹雪を見つめている。その視線に耐えられず吹雪は視線を這わせて頬を染める。冨岡が優しく手を握って歩き出し、吹雪は冨岡の横に並ぶ。
会話が無くてもとても居心地がいい。二人の足音だけが夜の静けさに響き、繋いだ手から冨岡の温もりが伝わってくる……それだけで満たされていく。
吹雪の家に着き、お茶を淹れて話をしながら寛いでいると冨岡がいきなり言った。
「……泊まってもいいだろうか?」
「え?」
聞き返した吹雪だったが、冨岡はそのまま黙り込んでしまい返事はなかった。
急にどうしたのかと思ったが、来客用に一組は布団を用意しているし泊まるのは全然構わないのだが、冨岡が着れる着物が無い。
「泊まるのは構いませんが、義勇さんに合う着物が……」
「あるので問題ない」
手に持っていた荷物はそういうことだったのか。用意がいいな。
「ではお風呂の準備と床の用意もしますね」
「……沸かすのは俺がしよう」
「でも」
「火傷したら大変だろう」
自分に任せればいい――そう言わんばかりに外へと出て行く。冨岡が率先してやると言っているのに止めるのも申し訳ないと思い、お風呂は冨岡に任せて吹雪は床の準備をしに寝室に向かった。
冨岡は器用な人だ。お風呂を沸かすのも上手で丁度良い温度を保ってくれている。
「……義勇さん。良い湯加減です」
「……そうか」
外からホッとしたような冨岡の声が聞こえてきた。格子戸の向こうに冨岡が居るので少し気恥ずかしいが、そこは耐えて身体や髪を洗い、湯舟に浸かる。
温かいお風呂ってなんでこんなに気持ちが良いのだろう……そんなことをふわふわした心地で考えていると、冨岡が話し掛けてきた。
「……吹雪」
「はい、なんですか?」
「…………一緒に、入らないか」
「入る……?」
「……湯船に」
湯船……一緒に……入る……。単語を並べると冨岡が何を言いたいのか分かった。分かった途端にお湯で温まった身体が更に体温を上げる。
「えっ!?あああの、そ、それはこ、こん、混、浴、というこ、こここことですか!?」
「……そうだ。今ではなくて、今度屋敷に来た時に」
「…………」
「驚かせてすまない。吹雪が嫌でなければ」
「……い、嫌ではありません。その……気恥ずかしいと言いますか……」
「……俺もだ」
「…………」
「…………」
それからお互いに黙ってしまったが、暗黙の了解で双方嫌ではないから承諾したようなものだと雰囲気で分かる。何も言わなくても相手のことが分かると、母様も言っていたことがあるがこういうことなのだろうか……?
(義勇さんは雰囲気や表情とか手とか……そういうところにも出るから分かるのかな)
小さなことでもこんな幸せに感じられる日がくるなんて……生きていれば何があるかわからないとは言うが、今正に自分で体感している。
(母様……こんなこと思うのは不謹慎かもしれないけれど、本当に私幸せだよ……)
この先待っている戦いの前にこんな気持ちになるのは、その反動になる出来事があるかのような気もする。だが例えそうでも、悔いがないようにそれまで生きることは出来る。
皆の待ち望んだ決戦の舞台だ、その舞台に悔いは要らない。その為に一瞬一瞬生きることを吹雪は心に誓った。
* * * * * *
翌朝、早朝に目が覚めて外の空気を吸おうと町まで外に出るとまだ人の姿は見えなかった。泊まった冨岡も隣でまだ眠っていたし、戻ってお茶でも飲んで寛ぎながら冨岡が起きるのを待っていようかなと思っていると――。
「――早いですね、吹雪さん」
急に声を掛けられて振り返った先には胡蝶しのぶが居た。
「おはようございます、しのぶ様。しのぶ様も朝早くにどうされたのですか?」
「少し外の空気をと思ったものですから。ふふ、吹雪さんに会えるなんて嬉しいです。良かったら少し一緒に歩きませんか?久しぶりに会えたことですし」
「はい。私で良ければ」
胡蝶と二人で朝早くの町並みを歩く。橋の真ん中で早朝の柔らかな陽射しを浴びる。とても穏やかで心地良い時間だ。
「柱稽古の方は如何ですか?」
「今不死川様と稽古中です。柱の方々と手合わせなど初めてですから、良い刺激になっています」
「それは良いことです。吹雪さんは早く稽古が終わってしまいそうですね」
「四~五日は柱の元で稽古しています。他の隊員との稽古もあるのに時間を割いて頂いて申し訳ないと思いつつも嬉しく思っています」
吹雪の言葉に胡蝶は微笑み、昇っている太陽を見つめる。柔らかい朝日が身に染みるようで、隣に立つ吹雪を見る。
初めて見た時から思っていたが、同性ながら吹雪の綺麗さには見惚れてしまう。朝日を浴びて光る淡い水色髪、色白の肌、キレイな所作、無表情でも目立つ顔立ちは微笑むとそれは女性でもドキリとしてしまう。此処最近の吹雪は以前より表情豊かになりより魅力的になった。それに儚そうな外観に反して鋭く男にも負けない力ある剣技、柱にならないのが勿体ない。
胡蝶を始め他の柱もお館様も同じことを思っているが、無理強いはせず甲のまま柱同等の働きをしてくれている。それだけでも大きな働きで鬼殺隊に貢献してくれている。
(貴女に“鬼殺隊”なんてものは似合わない……それは今でも思っています。変わり始めた貴女を見るようになってからはより――貴女には普通の女性として幸せに生きてほしいと願っています)
鬼との最終決戦目前、この戦いが終われば全員鬼への恐怖も恨みも憎しみも落ち着き、鬼に怯えて生きなくてもよくなる。全員生き残れるかは分からないが、生き残った隊員には幸せになってほしいと心から思っている。
(冨岡さん――吹雪さんを宜しくお願いしますね――)
分かりにくいが蝶屋敷に吹雪が居る時は「怪我をしたのか?」と心配し、吹雪と顔を合わせると声を掛けて色々と気に掛けているようだった。それに今では下の名前で呼んでいるようだし、仲良くなっているようで安心している。冨岡が生き残ったなら吹雪を幸せにしてあげてほしい。家族を殺され、父親を、弟を、鬼舞辻に鬼にされ自ら斬る運命にあっても尚顔を上げて生きようとする吹雪を。
「……お互い悔いのない戦いにしましょう。柱稽古頑張ってください。それと……冨岡さんのこと宜しくお願いしますね」
「え?」
「ふふっ。冨岡さんが吹雪さんを気に掛けているの知ってますから」
胡蝶の言葉に吹雪の頬が赤らんで目線を下げる。あら、こんな表情をさせるなんて……冨岡さんやりますね。
吹雪の反応を見て大丈夫だと確信した胡蝶だった。
* * * * * *
胡蝶と別れて家に戻ると、廊下の向こうから冨岡が姿を見せた。眠そうな目をパチパチさせながら吹雪に近付いて来る。
「……出掛けていたのか」
「はい。少し外の空気をと思ったものですから」
「……もう稽古に行くのか」
「いえ、流石にまだ早いので行きません。私これから朝ご飯の用意をしますから、義勇さんはゆっくりしていてください」
横を通り過ぎようとしたら後ろから急に抱き締められて引き止められる。
「っ!?び、びっくりした……ど、どうしたんですか?義勇さん……」
「…………」
冨岡はただ黙って吹雪を抱き締めたまま。まるで吹雪が居ることを確認するように、噛み締めるように目を瞑る。
「……すまない。もう少しこのままでいさせてほしい」
「……は、はい」
冨岡に抱き締められながら吹雪は思った。
距離が縮まっていく度に触れられたり、抱き締められたり、手に触れてきたり、相手の存在を確かめることが多いなと吹雪は思った。温もりや形を確かめるようにゆっくりと触れられる時はこちらの羞恥が勝るが、もしかしたら冨岡は触れるという行為が好きなのかと。今まで自ら進んで触れてこようとするのは家族以外いなかったから、最初は抵抗があったが、冨岡の触れ方が優しくて、愛おしそうに触れるものだから冨岡になら触れられてもいいかなと……受け入れてしまう。
(義勇さんのことをお慕いしているから、そう思うのかもしれないけれど……)
この先何度だろうと何年と月日が経っても慣れることはないのだろう。
吹雪がそんなことを考えている時、冨岡は今自分の腕の中に吹雪が居ることに安心していた。
朝目が覚めると隣で寝ていた筈の吹雪の姿がなかった。冷たくなっていた布団から察するにかなりの時間が経っていることが分かる。探そうと寝室を出たところで吹雪が戻ってきて玄関先で音がした。廊下を進んで角を右に曲がると、吹雪が居た。
朝ご飯の用意をしようと通り過ぎる吹雪を引き留めるように後ろから抱き締め、冨岡は吹雪がちゃんと居ることを確かめたくなった。服越しでも伝わる体温、匂い、ちゃんと居る――。
(最近、吹雪が居なくなるようなそんな気がして不安になることが増えた)
修行に行くと置手紙を置いて行った時はまだ良かった。七日後にまた会える――だから吹雪が戻ってきた早朝、会える気がして吹雪の家に行くとちゃんとそこに吹雪が居た。それだけでも安心だが、ちゃんと自分の手で触れないと落ち着かなくて吹雪に触れて確かめる。頬に、髪に、手に、身体を抱き締めてようやく安心出来る。……それでつい、口吸いするのは許してほしい。
(まさかここまで、求めるなんてな……)
初めて会った時、儚げでいつの間にか消えてしまいそうだと思った。それからはあまりそんなこと感じたことはないが、今ではその通りになるのが怖い。鬼殺隊に所属しているのだから、鬼との戦闘で命を落とすなんて当たり前に等しい現実。実力があってもより強い鬼と出くわして終わることだってある。それは柱を始め鬼殺隊員全員覚悟の上だ。冨岡も吹雪も。
(覚悟を決めていても、可能性があるなら望んでしまう。この先も吹雪と一緒に居たい)
その前に吹雪がいなくなりそうで、会える時は顔を合わせてこうして触れて確かめたい。大切な人がいなくなるのはもう……。
祝言の前に鬼から自身を守ってくれた姉の蔦子、鱗滝左近次の元で修行していた時に仲良くなった友達の錆兎、そして鬼殺隊入隊後、柱になってから出会った吹雪。
話すようになったのは吹雪が背後から抱き着いてきたことがきっかけ。冨岡の後ろ姿が吹雪の兄に似ていて、兄にしていた癖が冨岡を見て発動し、それで毎度行っては土下座して腹を切って詫びようとするのを止めるというのが冨岡と任務に当たる際の恒例だった。落ち着いているからあまり表情を崩さないと思っていたが、話すようになって少しずつ表情を崩してくれるようになった。微笑んだり恥ずかしがったり照れたり、とても可愛らしくて愛らしい一面、しっかりしているのに何処か抜けているところも、容姿で辛い目に遭ってきたのにそれでも人に優しく出来て、抱え込んで人に上手く甘えられない不器用なところも、幼い頃から妖と親しくしていたのもあって人でなくなってしまっても、それ全てひっくるめて冨岡は吹雪を好きになった。
吹雪が慕っている妖の烏天狗の元へ修行へ行く前、吹雪と両想いであることが分かって今までの関係よりも深い仲になった。だからなのか、以前よりも吹雪に対して愛情が増している。ただの惚気だと言われればそうなのかもしれないが、本当のことを言っているだけなのだから惚気でもなんでもいい。
大切な人に変わりないのだから――。
「――あの、義勇さん……」
控えめに声を掛けてきた吹雪が身動ぎする。
「朝ご飯の準備をしたいので、そろそろ……」
「……すまない。安心したものだから」
離れがたかったのだが、朝ご飯の準備をしたい吹雪の気持ちも考えるとずっと引き止めるわけにもいかない。腕の中から解放し吹雪の手を引き台所まで連れて行く。
「俺も手伝う」
「いいんですか?」
頷くと吹雪は嬉しそうに笑い返してくれた。話し始めた当初には見せてくれなかったこの笑顔を、冨岡は守っていきたいと思った。鬼との最終決戦が終わり、自分が生きていたら吹雪の家族の墓前と烏天狗に改めて報告したいことがある。出来ればこの先吹雪が他の男性と親しくなることがないようにと思う。
吹雪が知るのは自分だけでいい……先が長かろうと長くなかろうと、これは自分勝手な我儘だが出来ればこの先自分だけを慕い愛していてほしい――。
こうして一緒に朝ご飯を作る時間さえ共有するのは自分だけでいいと、自分の中にあった独占欲に意外だと思いながらも隣に居る吹雪を好きになった時点で他者に嫉妬したり、それなりの感情を持っていたんだなと頬が緩む。味噌汁の味見をしようとする吹雪が小皿に注いだ味噌汁を冨岡に差し出してきた。
「義勇さん、味見お願いします」
目を瞬かせていると吹雪が微笑むので、小皿を受け取り味見する。
「……美味い」
嬉しそうにする吹雪の頭を軽く撫で、朝食の準備を進める。
何気ないことでもこうして吹雪と一緒に過ごせることが冨岡は嬉しく思う。決戦前の短い時間でも何気ない時間をこうして過ごして共有したい。
今日も打ちっぱなしの稽古を不死川とすると話す吹雪に「そうか」と返事しつつ、内心不死川に少し嫉妬する冨岡であった。
「鈴の音が花を氷らせる 十七」 終わり