蝶屋敷を後にして町の甘味処で抹茶を味わっているとちょっとした騒動が起こってしまったが、何とか納まった。

 

 

 

 それから家に戻って夕餉に何を食べようか考えながら身支度を解こうとすると、一羽の鎹鴉が縁側に降り立った。その鎹鴉に近付くと、脚に紙が巻かれていることに気付いた。取り外し指先で頭を撫でてやると、満足したのか飛び立っていった。

  「……冨岡様から?」

 内容は明日の昼に家を訪ねるとの事。ということは……。

 

  「――鮭大根の材料!」

 

 今日の内に材料を揃えなければ間に合わない!

 吹雪は慌てて必要なものを持って町へと買い出しに走った。

 

 

            *  *  *  *  *  *

 

 その日の夜、夕餉を済ませて洗い物を片していると急に庭に気配を感じた。居間に戻り日輪刀を腰に差し客間へと移動し、ゆっくりと庭に面した障子戸に手を掛けて素早く開ける。

  「!!」

 庭に立つ影に吹雪は目を見開かせて瞳を揺らす。

 

 

 

  「――久しぶりだな、吹雪。……元気そうでなによりだ」

 

 

 

 庭に立っていたのは一人の男性だった。山伏の姿をし金剛杖を持ち、口元だけを見せた烏を思わせる嘴のある黒い面を付け、背中には黒い翼が生えていて足元は吹雪と同じ一本下駄を履いている。その人物の姿を目にすると吹雪は草履を履いて庭に下り立ち、その人物に向かって走り首に腕を回して抱き付いた。

  「天狗さん!!」

  「おぉっと!?……ははっ、二年ぶりか。大きくなったな」

 男――天狗と呼ばれた男は抱き付いてきた吹雪を抱き締め、優しい手付きで後頭部を撫でる。

 

 

 

 

 

 天狗を家に上げ、居間に通した吹雪はお茶を差し出す。

 吹雪を訪ねてきたのは妖の烏天狗。吹雪が五歳の時に山奥で出会ったとある山の主だ。烏天狗の周りには他にも多数の妖が彼を慕ってその山に住み身を潜めていた。今だからこそ妖だと分かったが、当時は迷い込んだのが妖の巣窟だとは知らなくて、襲われそうになっているところを烏天狗に助けられた。

 

 知り合って以降、ちょくちょくと山奥に遊びに行って烏天狗を始め他の妖とも仲良くなった。だが家族が崩壊した四年前、住んでいた土地を離れて以降烏天狗達とは会っていないが、母親の育手の元へ行き鬼殺隊に入る為の鍛錬をしていた時に修行を付けてくれていたのが烏天狗だ。だから実質育手は烏天狗と言ってもいい。

 

 烏天狗は吹雪の淹れたお茶を啜り、息を付く。

 

  「……無事に鬼殺隊には入れたようだな」

 

  「はい。天狗さんが修行を付けてくれたから」

 

  「いや、君の実力だ。吹雪が五歳の時に出会い、私の一本下駄を履きこなした上に人間なのが勿体無いくらいの身体能力……恵まれたものがあったからこその今だ。私達の影響も無い訳ではないだろうが」

 

 面を付けているから烏天狗の表情は見えないが、きっと自嘲めいた表情をしているのだろう。――もうどうのこうの言ったところで変わる事ではない。知らなかったとはいえそう生きてしまった私が選んだのだから「もういい」と言ったのに……。

 吹雪は苦笑を浮かべ、口を開く。

 

  「もう終わったことだと、仕方なかったことだからもういいと言ったのに」

 

  「…………辛い目にあったりしていないか?」

 

  「大丈夫。少し“使って”見せたりもあったけど、受け入れようとしてくれる人も居る。「人ではない」と言って回りには警戒されるようにしてたんだけど……鬼殺隊の人達はそんなもの通じないみたい。鬼なんて相手にしてるくらいだから、驚くこともないのかもしれないわね」

 

  「気に入られているのだな。もし何かあった時は私達と共に暮らせばよい。吹雪に会えなくて寂しがっている奴等が多いからな」

 

 先程とは打って変わって声音が明るくなって笑い声も漏らしている。気持ちの切り替えが出来る辺り酷く気にしていた訳ではないらしい。だが吹雪に対して負い目があり、気にしているようだ。

 

 

 

  「――どうして急に訪ねて来たの?様子見にしては変だけど」

 

 

 

 急に訪ねて来たのは驚いたが、様子見に来たのが本音なのは間違いない。だがそれだけにしては少し様子が変だ。いきなり話題を変えたとはいえ、聞かれることを予想していたのかすんなりと返答する。

  「気付かれてしまったか……私達は鬼に襲われることはない、だから私達なりに吹雪の為にと鬼の監視をしていたのだ」

  「鬼の監視?襲われないからってそんな無茶は……」

  「案ずるな。何も常に張り付いているわけではない。その土地に居る妖から鬼の情報を共有しているだけのことだ。おそらく吹雪が鬼殺隊に入って一年半経った頃だろう。人を襲っては点々と移動している妙な鬼がいるだろう」

  「!!」

 

 烏天狗が話したのは今吹雪が追っている鬼の事だった。人を襲っては喰らい、点々と場所を変えるのは鬼殺隊から逃げているわけではないという。どうやら特定の人物を狙っての蓄えだという。

 

  「どういうこと?特定の鬼殺隊員を狙って力を蓄えるって……圧倒的な力の差を付けて殺すつもりなの?」

 

  「いや。殺すつもりではない、捕らえる為のものだ」

 

  「捕らえる?何の為に……」

 

  「――鬼にする為だと、私は思う」

 

 烏天狗の口から出た言葉に吹雪は驚きを隠せなかった。鬼が特定の人物を捕らえる何て動きはなかった筈だ。柱であろうと隊員だろうと鬼殺隊ならどんな芽も摘んで脅威を減らすのが鬼ではないのか?

 吹雪の考えが分かるのだろう、烏天狗は話を続ける。

  「鬼が姿を現わして千年は経った。自分達を狩る奴等もしぶとく食らい付いてくる状況を覆すには一番はどうすればいい?戦も争いも上がやられれば終わり、上を守る盾が無くなれば幾ら上が強くとも何時か狩られる――なら敵が劣勢になるには敵の中心を崩せばいい」

 

 

  「鬼殺隊の中心人物を鬼にすれば、抹殺出来る糸口になる……?」

 

 

 吹雪の言葉に烏天狗は頷く。

  「あとは顔見知りだと躊躇いが出るというのもあるだろう。おそらくは鬼殺隊の柱や後に任せる人材になりそうな奴を狙うだろう。吹雪も気を付けろ」

  「私は――」

  「人でないというのは時に脅威にもなり得る。人には出来ない事が吹雪、お前には出来る。言い方は悪いが呼吸があるとはいえ所詮は人でしかない。……それは良く分かっているだろう?」

  「…………」

 烏天狗の言葉に吹雪は返す言葉もなかった。

 

 

 ――人に出来ないこと、それは炭治郎の前でも見せた。それだけではなく、触れずとも物を操る、声を聞く、瞬時に広範囲の気配と動きを察知出来る、何事でもなし得る霊妙不可思議な力……神通力も使える。傷を負っても鬼の様に瞬時には再生しないが、氷の膜が張って何時の間にか傷が治ったり、様々な妖と知り合う内にいつの間にか吹雪の体に妖の妖力が沁みて使える様になっていた。

 

 

  (…………受け入れてるつもりでも、天狗さんに言われると重みが違うな……)

 

 

  ――人でない者達と共にあるというのはそういうことだ。人である内に私は警告した筈だぞ。……お前が苦しむだけだ。

 

 

 天狗さんがみんなを、彼女を、人ではなく“妖”だと私に言った時、私の体は人から半分以上離れた状態だった。その状態ならまだ人に戻れる可能性がある。だからもう自分達と関わるのを止めろと強く警告された。だが私はそれを聞かなかった。

 

 

  ――人にも妖にも遠ざけられるなら……私どうしたらいいの?誰も、私を受け入れてくれないのっ……!?

 

 

 烏天狗や他の妖達の前で泣きじゃくる私を天狗さんは何も言わずに優しく頭を撫でて抱き締めてくれた。人でなくなっていく事を受け入れつつもそれを家族には言えなかった。現実を天狗さんに突き付けられてから一年後、家族があんなことに……。

 住んでいた土地を離れて母様の育手の元に行ったはいいが、水の呼吸を極められず途方にくれながら一人で修行していた時、天狗さんが現れて修行を付けてくれた。それに自分に合った呼吸は何なのか、それを教えてくれたのも天狗さんだ。

 

  (人でなくしてしまった事の責任の一旦を感じてるんだろうけど……)

 

 

 

  「――良い殿方は見つかったか?」

 

 

 

 急に口を開いたと思ったら何を言い出すのか――面で顔が見えないから烏天狗がどういう顔をしているかは想像するしかないが、思い詰めた表情だった吹雪も目が点になるしかなかった。

  「きゅ、急に何を……!」

  「受け入れようとしてくれる人もいると言っていただろう?鬼殺隊は殿方の方が人数が多いようだからな。良い殿方でも見つけられたのなら、見定めが必要になるだろう」

  「いません!そんな人!」

  「そうか。それは残念だな。……見つからなければ、私達と一緒に暮らせばいい」

  「……こんな私に好かれたって、迷惑を掛けるだけで誰も嬉しくないわ……」

 

  ――そう、話しているみんなきっとそう思うに違いない。

 

 

 

  ――雪代の事を知れて良かった。

 

 

 

 ふと、以前冨岡が言ってくれた言葉を思い出した。家族の事を聞かれてあの惨劇を話し、その後どうなってどういう経緯で鬼殺隊に入ったか――良い話ではない。それでも黙って聞いてくれていた冨岡はそう言った。炭治郎も「もっと話したい」と、摩訶不思議な力を見せても彼は気味悪がることもなかった。

 そんな彼等も本当の意味で受け入れてくれているかは分からない。だから真には受けない。いざという時に傷付くのが怖いから。

 

 

 

 

  ――チリン、チリン、チリチリン……。

 

 

 

 

 吹雪の傍らに置かれている日輪刀の鍔に付けられた鈴が急に鳴り始めた。しかも何時になく音が鳴るではないか。鈴に視線を落とすと鈴がコロコロと転がって音を出し続ける。何時もと違う現象に目を見張っていると、烏天狗が高笑いした。

 

  「はっははははっ!!吹雪を苛めるなと言っているようだな!くくっ……ふははははっ!!」

 

  「…………(何がそんなに可笑しいんだろう……)」

 

 鳴り続けていた鈴はピタリと動きを止め、音も止んだ。烏天狗の反応に満足したかのように。

 未だに肩を震わせながら笑う烏天狗は長い息を吐いて気持ちを落ち着かせると、吹雪の顔を見据える。

 

  「……すまない。ただの鈴とはいえあいつに違いなかったな。吹雪を気に入って自ら望んだとはいえ、意思までは宿っていないと思っていたのだが。とはいえ普段は鳴らないのだったな?気まぐれとはいえ音を出す時と場合が合い過ぎだな。くくくっ……!」

 

 まだ笑うんだ……どうやら烏天狗のツボに触れてしまったらしい。何がそんなに面白いのか吹雪には分からないが。

 

 

 久しぶりの再会に話が弾んだが、夜が更ける前に烏天狗は帰って行った。

 

 

            *  *  *  *  *  *

 

 日付が変わって次の日の朝、吹雪は昼に家を訪ねて来るという冨岡の文を信じて彼の好物を作る。鮭大根なんて初めて作るが……行きつけの甘味処の店主に作り方は聞いたし、大丈夫だろう。冨岡が来るという昼に合わせて台所で作っているが、もう少し煮込めば出来上がりだ。

 

  (こんな料理もあるんだ。母様と一緒に料理はしてたけど、まだまだ知らない料理が世の中にはあるみたい)

 

 あと、鬼殺隊の柱である甘露寺に連れられてハイカラな洋食?という料理も食べさせてもらったこともある。……不思議な食べ物だった。

 そんな事を考えて鮭大根を煮る鍋を見つめていると――。

 

 

 

  「――良い匂いだな」

 

 

 

 突如背後から声がし、吹雪は声を上げた。

  「きゃあっ!!――と、冨岡様!?」

 慌てて振り返ると、思いの外近くに冨岡の顔があった。吹雪の驚き様に瞬きをしていた冨岡だったが、気にすることもなく再び鍋に視線を向ける。

  「……何か考え事か?俺が近付いたのにも気付いていなかったようだが」

  「少し昔の事を思い出してただけですから」

  「……そうか」

 そうこうしている内に良い具合に煮詰められてきたので、鍋を火から離した。

 

  「何時の間に来られてたのですか?声を掛けてくれれば出迎えましたのに」

 

  「鎹鴉を向かわせたが、作業をしていたようだったからな。悪いとは思ったが、勝手に上がらせてもらった」

 

  「そうだったんですか。直ぐに持って行きますから、冨岡様は居間で座っていて下さい」

 

  「……手伝わなくて大丈夫か?」

 

  「大丈夫です」

 

 笑顔でそう言うと、冨岡は気にしながらも身を翻して台所から離れて行った。待たせては悪いので、てきぱきとした動きで吹雪は昼餉の準備を始める。

 

 

 

 

 

 

 鮭大根だけでは味気ないので、お昼ということもあってご飯と味噌汁と副菜も付けた。鮭大根を先に食べると思っていたが、冨岡は一番に味噌汁に口を付けた。どういった反応をするのか気になって冨岡を見つめていると、ポツリと呟いた。

  「……美味い」

  「本当ですか!冨岡様の口に合って良かったです!」

 それから鮭大根を食べ、一言「美味い」と言って黙々と食べる冨岡の姿に吹雪は微笑みを浮かべ、止まった箸を動かし自分も食べ始める。

 

 

 

 

 

 

 初めて作った鮭大根だったが、冨岡の口に合って良かった。おかわりもしてくれて、別に無理をして食べている様子もなかった。自分の味付けが人の口に合うのか不安はあったが、残さず食べてもらえたので良かった。

 食器や道具を洗って拭いていると、スゥッと右隣に冨岡が立った。

  「……拭けばいいのか?」

  「え?ですが……」

  「手伝う」

 引かない様子に吹雪は手拭いを冨岡に差し出した。それを受け取るのを見て食器拭きをお願いする。

 

 

  「…………」

  「…………」

 

 

 特に何も言うこともなく時折響く食器を重ねる音や衣擦れの音だけが異様にはっきりと聞こえる。嫌というわけではないが、ちょっとどうすればいいのか分からない。

 

  (……何だろう、この妙な空間。冨岡様が隣に居るからなのか、妙に緊張する……)

 

 チラッと冨岡の横顔を盗み見るが、黙々と食器を拭いてくれている。手際が良いので食器が全て拭き終わると吹雪を手伝ってくれる。それに食器もしまってくれて最後まで手伝ってくれた――。

 

  「手伝って頂いて申し訳ないです。ですが冨岡様のお蔭で早く終わりました。ありがとうございます」

 

  「気にするな。礼だ」

 

 昼餉が終わって後片付けも終わった。お茶を淹れてゆっくりと居間で寛いでいると、冨岡がジーっと見つめてくるので吹雪は首を傾げる。

  「あの、何か?」

  「…………雪代は、誰かを名前で呼ぶことはあるのか?」

  「名前で、ですか?」

 最近名前で呼ぶ(強制に近いとも思えなくはない)様になったのは無一郎や甘露寺に胡蝶だろうか。だがあれは向こうから「そう呼んでほしい」と頼まれて変えたのであって、吹雪自身が呼びたいと思って呼び方を変えたという訳ではない。

 

  「……そう呼んで欲しいと言われてお呼びしていることはあっても、私自身から進んで呼ぶ方はいません。呼んでも良いと言われても、呼びづらいではないですか」

  「何故だ」

  「親しくなったということではないですか、名前で呼ぶということは。……いざという時に怖いので、私は余り名前で呼びたくはないのです」

  「…………」

 

 親しくなればなるほど親密さが増すのは良い事だろう。だが吹雪にとっては不安材料でしかない。鬼殺隊の人達――特に柱や特定の人達は吹雪と距離を縮めたいのか関わってこようとする人がいる。それは凄く嬉しいことだし、こちらも相応の反応を返すべきなのだろうが、人ではないという本当の意味を彼等は分かっているわけではない。意味が分かって見る目が変わったり態度が変わることが吹雪は一番嫌なのだ。居てもいい居場所……そんな場所を見つけられた様な気がしているのにそれを壊して去る破目になればいよいよ烏天狗達と山奥に居るしかなくなる。

 

 心の何処かで、受け入れられないのを分かっていながらも受け入れてもらいたいと思う矛盾があるのは理解している。傷付くだけだと分かっているのに学習しない辺り、自分も馬鹿なのかもしれない。

 

 

  「前に「人ではない」と言っていたことが関係しているのか?」

 

 

 冨岡の問い掛けに、吹雪は顔を逸らして黙秘を決める。話したら冨岡は黙って聞いてくれるだろう。だが前の時の様に受け入れてくれる発言をしてくれるかどうかは分からない。

 話す気がないと分かったのだろう、冨岡は肩を竦めると立ち上がった。

 

 帰るのかと思ったが、吹雪の側に片膝を付き手に触れてきた。

 まさか手に触れられるとは思っておらず、自身の手に重なる冨岡の手を見つめる。自分の手と違って大きく、ごつごつとしていて肉厚な手だ。掌は剣の修行等で出来たまめで硬くなったところがある。冨岡もかなりの鍛錬をした結果が掌に現れているのだろう。自分の手も女性らしいとはいえないが。

 

  「……無理に話せとは言わない。話しても良いと思ったその時には、話してくれるか」

 

  「…………」

 

 吹雪は頷くことしか出来なかった。未だに触れたままの冨岡の手から逃れようとしたが、左手を掴まれ、逸らした顔を上げて冨岡に顔を向けてしまって「しまった」と思った。何時になく冨岡が近い距離に居る。深みある青い目が吹雪の目を真っ直ぐ見つめてくる。逸らしてしまいたかったが、逸らせなかった。

 

 

  「雪代。俺達は顔見知りか?」

  「え、いえ……」

  「知り合いか?」

  「……そうであるようなそうでないような……?」

  「仲間か?」

  「……同じ鬼殺隊に居ますし、ですが上官と部下といいますか……」

 

 

 いきなり何を聞いてくるのかと思ったが、冨岡は真剣なようだ。

  「前に家族の事や、鬼殺隊に入るまでの経緯を話してくれたな。……言いたくない事も話してくれた。俺に気を許してくれていると思っている」

  「……そう、ですね。冨岡様には気を許しているのかもしれません。その……話す事になったきっかけもきっかけでしたし……」

  「……あれ、か」

 当時の事を思い出すと穴があったら入りたい気分だ。恥ずかしさの余り冨岡の目から目線を逸らそうとしたが、逸らす前に冨岡が口を開く。

 

  「……俺の名前は知っているな」

 

  「冨岡義勇様、です」

 

  「……俺と雪代は、親しい間柄だと思わないか?」

 

  「??」

 

  「名字で呼び合うのは、他人行儀だと思わないか?」

 

 何だろう……凄く篤いというか必死というか……。何を言いたいのだろう?――目を瞬かせながらそう思考を巡らせていると、冨岡の顔が近付いて来る。互いの鼻先の間は拳一つ分くらいで、これ以上詰められると色々と危ない、と思う。

 ジワジワと朱を注いだ様に吹雪の顔が染まっていく。生まれてからこの方、こんな至近距離で殿方の顔を見たことがない。初めて顔を合わせた時から思っていたが、冨岡は整った顔立ちをしている。そんな相手の背後から抱き付いていたと思うと烏滸がましいし、もう羞恥だけでなく様々な想いが胸の内に渦巻く。

 

 

 何か言わないといけない、そう思うのだが何を言えばいいのか分からず吹雪の頭の中も胸中も混乱している。それを察しているかは分からないが、冨岡はただジッと吹雪の瞳を見つめるだけだ。と――。

 

 

 

  「……吹雪」

 

 

 

 冨岡の口が吹雪の名を呼んだ。呆けていると、再び冨岡が口を開いた。

  「吹雪」

  「は、はい……なんで、しょうか……冨岡様……」

  「……違う」

 少し不服そうな顔して言うのだが、何か気に障る事を言ったつもりはない。一体何を求められているのか吹雪にはさっぱり分からない。

 

  「同じ様に呼ばないなら、このままだが……それでいいのか?」

 

  (同じ様に、呼ぶ……?)

 

 冨岡は先程から自分の事を“吹雪”と名前で呼んでいる。同じ様にということは、冨岡の事を名前で呼べ――と、そういうことになる。冨岡が何を言いたいのか分かった吹雪は狼狽える。

  「で、ですが――」

  「吹雪」

 吹雪が名前で呼べないと言おうとしていると分かったのだろう。否定の言葉を発する前に名前を呼ばれて遮られる。

 

 冨岡は自分達の仲は親しいものなのだから、名前で呼び合うべきだと言いたいらしい。どうしてそこまでして名前で呼んで貰いたいのかは分からないが、吹雪は戸惑うしかなかった。名前で呼び合う程親しくなってしまえば、それが壊れた時の反動が怖い……それは勿論だが、冨岡との間柄がもし壊れてしまったら――そう思うだけで今まで感じたことのない恐怖を吹雪は感じた。

 

  (……私、何時の間にか冨岡様にそんなに心を許してたんだ……)

 

 兄の後姿に似ている、そんなきっかけから冨岡と知り合い今日まで顔を合わせては話をしてきた。こうして家に上げて、こんな至近距離まで接近を許してる自分は、自分が思っている程深く気を許しては胸の内を話す程に心を開いてしまっている。どうしてそこまで心を許しているかは分からない――だけど、冨岡が放つ多くはない優しい言葉が吹雪の胸に沁みているのは間違いない。

 

  (この人はどうして……こんなにあっさりと胸の内に入り込んでくるんだろう……)

 

 何故自分を気に掛けてくれるのか、優しい言葉を掛けてくれるのか、それ等を聞ける日が何時かくるだろうか。

 

  「――今まで何を言われてきたのか、俺には分からない。だがそいつ等と俺を一緒にするな。俺は吹雪を見ている。だから吹雪も俺を見ろ。……いいな」

 

  「…………はい。……ぎ……ぎ、義勇、さんっ……!」

 

  「…………聞こえなかった」

 

 この至近距離で聞こえない等といったことがあるのか!

 冨岡はただジッと吹雪が口を開くのを待っている。再び言うまで待つつもりとでもいうのか。

  「ちゃ、ちゃんと呼びました!…………義勇、さん……」

  「なんだ」

  「!聞こえなかったからともう一度お呼びしただけです!」

  「……そうか」

 前に一度見せた柔らかな微笑を浮かべ、冨岡は掴んでいた吹雪の手を放し、側からも離れて元座っていた位置に座り直す。

 

 

  「……吹雪」

  「……な、なんですか……義勇さん……」

  「……呼んだだけだ」

  「何ですか、それ……」

 

 

 今は冨岡の顔を見られそうもなく、吹雪は体ごと背け、顔の熱が引くのを待った。そんな吹雪の姿に冨岡はフッと笑った。

 

 

            *  *  *  *  *  *

 

 雪代吹雪という人物に会ったのは、一年半前だっただろうか。

 任務で合流した時、初めて見る髪色に目を見張った。白髪の様に見えたが薄い水色髪らしく、見方によって白髪にも見える程色素が薄いとみた。肌は雪を思わせる程白く、正直鬼殺隊に居るのは似つかわしくない女だと思った。一本下駄に日輪刀の鍔には鈴、変わった呼吸を使い妙な能力も使うとかいう噂の女剣士がいるとは聞いていたが、入隊して四ヶ月で甲まで上り詰めた実力は柱やお館様も注目しているという。

 

 無事に合流したから任務に向かう為に吹雪に背を向けた瞬間、背後から衝撃を受けて固まった。……腹部に回った腕に背中に伝わる温もり、そんなことが出来るのは自分以外にこの場に居る先程合流した吹雪しかいない。

 

 声を掛けると、吹雪は顔を真っ青にして後退り、地面に額を付ける勢いで土下座して謝罪した。

 訳を聞くと、死んだ兄に後姿がそっくりで挨拶みたいに背後から抱き付いていたから、その癖が出てしまったのだと。腹を切って詫びようとする吹雪の手首を掴み、「別に構わない」と口にした自分に驚きつつも吹雪の顔を見つめた。複雑そうな顔をしていたが、初めて顔を合わせた時もこうして近くで見ても、吹雪は綺麗な顔立ちをしていると思ったものだ。

 

 

 

 

 ――それから何度か吹雪と顔を合わせたが、その度に背後から抱き付かれることに慣れてしまった自分がいた。それに嫌ではないのも事実。言葉を交わすことになったきっかけは衝撃的だったが、それがあったからこそ、こうして少しずつ距離を縮められているのかもしれない。

 

  (話すようになってから、幾らか表情も見られた)

 

 先程の朱を注いだ様な顔は一番印象深い。普段無表情で余り変わらないが、こうも顔色を変えたのは初めてではないだろうか。それに歳相応の女人らしい反応だ。

 

  (――ふっ……愛らしい……)

 

 こちらに顔を向けられないのか、体ごと背けてしまっている吹雪に冨岡は表情が緩むのを感じた。それに先程の名前を呼び合うだけのやりとりも心地良かった。

 

 

 

  ――義勇さん。

 

 

 

 吹雪にそう呼ばれて冨岡と呼ばれていた時とは違う心地良さに冨岡は満足した。これで少しは吹雪との距離も変わっただろう。吹雪はまだ冨岡に隠していることがあるみたいだが、それも何時か距離が縮まれば話してくれる――そう思いながら、冨岡は目の前の吹雪を見つめ続けた。

 

 

            ㈣   終わり