屋上を後にしようとしてドアが勢いよく開いた。その開いたドアから出てきたのは――丸内大助だった。
 
 
 瞬きする茜に大助は手に持つ紙袋を突き出す。
  「……はぁ……はぁ…………何か言ってから置いてくれねぇと分からないだろ!一瞬俺がこんな可愛らしいもの持って来たかって考えたぞ!」
 
 
 大助が実際に使っているところを想像したのか、茜はぷふっと口元を隠して小さく笑う。茜の笑顔に大助はポカンと立ち尽くす。
 
  (笑った……)
 
 1年の時に見掛けたあの笑顔だ。じんわりと胸に灯が灯り温かくなる。
 
 
 
 
 
                     2章  ― 見つめた先 ― 後編
 
 
 
 
 
 呆然とする大助ははっとして首を振る。何やってんだ俺!夏目の笑顔に見惚れてる場合じゃねーっての!どうして作ってくれたか訊かねぇと……。
 
 
  「……まさか、本当に作ってくれるなんて思ってなかった。てっきり流されるだろうってちょっと思ってたからさ」
 茜は顔を背けたまま小さい声で言葉を返す。
  「…………冗談やろうと思ったけど、作ってくれへんとかって言い掛かり付けられても……面倒やから」
 さっき垣間見せた笑みは消え、何時もの無表情に戻って感情が読みとりにくい。
  「…………」
 
 
 それぞれの立場の違いから生まれた見える壁はずっと続くのだろうか。人気者と怖れられる者、解ってはいたが今それが酷く嫌だ。仲良くなりたいのに、関わったら面倒事に巻き込まれそうで嫌だと言われているも同じ。大助は拳を握り締める。
 
 何も言わず黙ってしまった大助を見て、茜はもう話は終わったと受け取って大助の前から去ろうとドアへと歩を進める。
 
 
 
  「……冗談何か言うかよ……」
 
 
 
 通り抜けにぽつりとそう聞こえた。そして手首を掴まれて後ろに引かれ、体勢が崩れる。崩れた体は細くとも逞しい腕に抱き止められ、後ろから抱き締められる格好になる。肩口に大助が顔を埋め、離さないとばかりにがっしりとお腹に腕が回っている。
  「……そこまで器用じゃねーよ。俺は夏目と……?」
 小刻みに茜の体が震え出し、呼吸も徐々におかしくなり始める。
 
  「夏目……?」
 
 
 
  「つぅ――いやぁあああぁっー!!」
 
 
 
 急に暴れ始め大助は突き飛ばされ後ずさる。バランスが崩れフラッとしたがなんとか持ちこたえる。茜の小さな体の何処にそんな強い力があるのか。
 
 座り込んで頭を抱える茜は見てもはっきりとわかる程体を震えさせ、首を振っている。
  「来んで……来んでっ!!いやぁ、ああぁあああーっ!!」
  「お、おい……」
 茜に手を伸ばそうとしたが力一杯払われ、悲痛な表情が目に飛び込んできた。大きな瞳からポロポロと涙が零れ、大助を何かと勘違いして怯えている。
  「いやや、いや、いや……!」
  「俺だ、丸内だ」
  「いや、いやいやいやいやだ……あぁ、やあぁっ!!」
  「夏目……」
  「やぁっ……来んで!!――っふぅ!?っぁ……っ……!!」
 異様に短い間隔で空気を吸い込みだし、それが呼吸困難に変わり苦しそうに制服を掴む。
 
 
 大助は叩かれる覚悟で茜に近付き抱き締める。そして背中を優しく摩りながら語り掛ける。
  「ゆっくり、ゆっくりでいいから息を吐いてみろ。……落ち付け、俺は夏目を傷付けることはしないから……」
 しばらく優しく語り掛けながら背中を摩っていると、茜の呼吸も落ち着き始めた。
  「……っ……はぁ……はぁ……」
 
 呼吸は落ち付いてきても体の震えは止まらずで、大助はぎゅっと抱きしめ頭を胸に引き寄せた。
 
 
 
 耳が大助の心臓の鼓動を捉える。少し早目だろうか……?心地良いリズムと大助の温もりに茜は瞼をゆっくりと閉じて行く。
 
 
   ――なんか……安心する……。
 
 
 眠気に身を任せ、あっという間に茜は小さな寝息を立て大助の腕の中で眠ってしまう。
  「…………これ、どうすりゃいいんだよ……」
 少し体を離し覗き込むと茜は眠っていて、涙に濡れた頬を制服の袖で優しく拭ってやりながら大助は溜息を付く。意中の異性が自分の腕の中で眠っている――それだけでもう一杯一杯なのに余りにも無防備で、気持ちが先走りそうになるのを抑えながら暫く茜を抱き締めた。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
  「…………――?」
 
 
 目が覚めると、景色が変わっていて一瞬何処か解らなかった。背中には柔らかい感触、少し消毒液の様な薬品の匂い、カーテンに囲まれていて……ここは、保健室……?
 ゆっくり起き上がるとカーテンが開き、保健室の先生が顔を覗かせる。
  「よく眠ってたわね。もう放課後よ」
 赤フチの眼鏡を掛け、ふんわりカールしたセミロングの髪が揺れる。先生の名前は小笠原亜紀(おがさわら あき)。茜はちょくちょくお世話になっているのでよく話している仲だ。
 
 
 小笠原の言葉に茜がベッドから慌てて下りようとすると、小笠原は茜の肩に手を置き制する。
  「安静にしなきゃダメよ?お昼休みに丸内君が貴女を此処まで抱き抱えて来て、『発作起こした』って来て……それに、貴女が過換気症候群なのも見抜かれちゃってたわ」
  「え……」
  「将来医者になる卵よ。将来に期待しなきゃね☆」
  「…………」
 
 そうだ。確か屋上に居て、戻ろうとしたら丸内君がやってきて……それから…………。あれ……?途中からなんか記憶が曖昧。
 ボーっとしている茜の顔の目の前にズイッとマグカップが出される。
 
  「はい、ミルクココア。他の生徒には内緒よ?」
 人差し指を唇に当て、ウィンクをする。様になっていて違和感のない仕草だ。
  「贔屓してるわけじゃないけど、貴女とこうして話す時間は私にとって憩いなのよ。……同じ体験者としてね」
 小笠原の言葉に茜は驚き、顔を上げる。
  「あら、言ってなかったかしら。同じ体験してるのよ?私も……貴女より重いけどね」
 小笠原のカミングアウトに茜はマグカップを持ったままココアを眺め口を付けずにいた。当時の事を思い出し、自然と手に力が入る。
 
 
 
  「……平気そうに振舞ってても、これでも傷は抱えてるの。今でも消えないわ」
 一口ココアを飲み、茜に微笑みを向ける。
  「だけど、私の心の傷を理解してくれた今の夫に会えて、世界が変わったの。私より軽いとはいえ、傷が深い分心を開ける人は少ないかもしれないけれど、受け入れてくれる人が必ずいるわ」
  「……そう、やろうか……」
 
 こんな自分を受け入れてくれる人が、ホンマにおるんやろうか――そう考えている内にミルクココアが丁度良い温度にまで下がった。
 
 
        *  *  *  *  *  *
 
  「ご迷惑お掛けしました。失礼します……」
 
 
 小笠原にぺこりと頭を下げ、茜は保健室のドアを閉めた。
 家に連絡がいっているらしく、兄が校門前に迎えに来るとのことで、茜はゆっくりとした足取りで保健室を後にする。
  「……?」
 ふと顔を上げると、廊下の先に大助が立っていた。
 
  「気分、どうだ?昼休みから放課後までずっと寝てたみたいだから……心配で」
 部活はもう始まっている筈、なのに様子見で保健室にまで足を運んでいいのだろうか?
  「部活は?もう始まってる時間……」
  「今日ははや先が休みで、部長から調整に備えての各自自主練って言われて今日はなしなんだ。ホームルーム終わって覗いた時はまだ寝てたみたいだし、まだ寝てんのかなって思って見に来たけど、良かった……」
 安堵した微笑みを浮かべるが、直ぐに表情が曇る。
 
 
  「ごめん……俺が何か嫌な事思い出させたんだろ?過換気症候群引き起こさせたのは事実だし……ほんと悪かった!」
 90度に腰を折り曲げ深々と頭を下げる。そんな事されると思っていなかった茜は困惑してわたわたし始める。
  「べ、別に……たまにあることやから、そない丸内君が気にすることやないさかい」
  「気にするっての!それでまた辛い想いさせたら俺が夏目を傷付けたも同然で……」
 想像したのか、痛ましげに表情を歪め目を伏せる。
 
 ――ふと此処で茜は1つ疑問を覚えた。
 彼はどうしてこんなにも関わってこようとするのに、傷付けることを怖れるのか。嫌われるのが嫌なのか優し過ぎるからなのかは解らないが……。クラスメイトに振舞っている時とは違う気がして、大助がよく解らない。
 
 
 
  「……なして、そないに辛そうな顔するん……?」
 
 
 
 その問い掛けに大助は怪訝な表情を浮かべる。
  「うちが辛い想いしたとして、丸内くんにはどうでもええことで……避けられるようなうちなんかと関わって辛くなるんわ丸内君の方で……」
 足音が近付いてくる。大助はゆっくり茜との距離を縮め、手を伸ばせば触れられるところまで来て立ち止まる。そして――手をそっと掴み優しく包み込む。
 
  「俺は……1年の時の騒ぎ見てたんだ。夏目がすごく辛そうで、苦しそうな顔してたの見て思った。『なんでそんな辛そうなんだ?』って。夏目を苦しめてるものを知りたい、俺がそれを和らげてやりたいってそう思った。だから夏目の辛そうな顔は見たくないんだ」
 見上げると優しい瞳が見つめていた。
  「笑顔がみたいんだ。夏目を笑顔に出来る奴になろうって俺はあの時に……」
 反対の手が茜の前髪に触れ、くすぐったくて目を瞑ってしまう。
 
 
  「俺は……」
 
 
 前髪に触れていた手の指先が頬を撫でる。少し目を開けると、切なげな瞳が茜の瞳を覗き込んでいた。何か言おうと大助が口を開き掛けた時――。
 
 
 
  「大助ー!何やってんだ?」
 
 
 
 玄関の方から廉の声が廊下に響く。パッと大助は手を離し名残惜しそうに頬から手も離れていく。
 
  「……夏目の荷物、玄関に置いてる。迎え、来るんだろ?」
  「……う、うん……校門前に兄ちゃんが……」
  「校門まで見送る。行くか」
 
 
 身を翻して廊下を進んで行く大助の後ろを茜は少し距離を開けて付いて行く。さっきのこともあってかちょっとぎこちない空気が2人の間にはあった。
   (何を言い掛けたんやろ……)
 気になるが、きっと大したことじゃないと思って気にしないことにした。
 
 
 
 
 玄関にやってくると、廉と泰が2人を出迎える。
  「昼休みから今まで保健室にいたんだろ?愛がすっげぇ心配してたぜ」
  「愛が……?」
  「ああ。大助が何かしたんじゃないのかとか言って噛み付いてたけど、大助は発作を起こしただけとしか言わないからさ。ま、何ともねーならそれでいい」
 腕組みをしてニッと笑う。
 
  「……顔色も大丈夫そうだな。家まで帰れるか?」
 落ち付いた声音で泰が問い掛けてくる。無表情の表情に少し不安の色が混じっていて、どうやら心配しているみたいだ。
  「……うん。兄ちゃんが、校門前に迎えに来てくれるから」
  「そうか。なら安心だな」
 ふっと表情を和らげ茜の方に歩み寄って来る。茜がローファーに履き替えたタイミングを見て鞄を茜に手渡す。
 
 
  「あ、ありがとう……」
 お礼を言うと微笑むだけで、その様を大助が後ろで不機嫌に見つめている。
 
 
 
 
 
 校門前まで大助達に付き添われて来た茜は壁に凭れている兄、春樹の姿を見つける。
  「?……よっ。……なんや元気そやな」
 チラッと大助達に目を向ける。
  「茜が迷惑掛けたな。態々おおきに」
 
 春樹はひょいっと茜を持ち上げ自転車の荷台に座らせると自転車に跨る。
 
 
  「見送りおおきに。ほなな!――」
 
 手を挙げペダルに足を掛けこいで行く。颯爽と去っていく春樹に大助達は呆気に取られていた。
  「……何か嵐みたいな人だな」
  「ああ」
 頷き合う廉と泰に大助も心なしかそう思った。颯爽と登場して颯爽と去っていく、存在感が強いのか印象深く頭に春樹の姿が刻まれた。
 
 
 次第に小さくなっていく茜の姿を見つめながら、大助は何とも言えない気持ちが湧き上がるのを感じた。言葉では言い表し様がなくなんと言っていいかも難しい。
 見えなくなっても茜と春樹が消えて行った先を見つめる大助と同じ様に泰もまた見つめていた。視線を外し、日が沈み掛けた赤み帯びた空を見上げる横顔は切なげだった。
 
 
 
        2章  後編  終わり