「どうせ死ぬのに、人はどうして生きているのだろう」という若者の呟きがSNSで目についた。

「『あしたのジョー』を読みなさい」とリプしようとしたが、ちょっと考えてやめた。

 

人生は、刹那の連続である。

 

先日の友人とのいざこざで、

「そうか。世の中いろんな人がいるから、守るべき一定のマナーとかエチケットがあるのだな」

と齢この歳にして納得した。

「と、いうことは、その線さえ守れば何をしても良いと。」

 

日曜日の午後、少し遠い眼科に行って帰って来るまでの空き時間で1冊読んでしまう自分が怖い。

 

男性と、女性Aと女性Bとの話である。

自分のことを「二谷は」と書き出すのを読むのは初めてで、「?主人公は男性?女性?」と少し混乱した。

 

女性Aは家庭的で、体が弱く(本人申告による)、男性と彼女は関係を結んで「まあ、おれはこういう女性と結婚するんだろうな」とぼんやりと思っている。

ただ、辟易するのは、女性が「ちゃんとしたものを食べないと」と、せっせと家庭料理を作ってくれることである。

 

二谷はそれが実はすごく嫌だ。

「空腹を満たすだけならカップ麺でいいじゃないか。作って、食べて、片付けて、一時間はかかる」。

はい、それ、今のわたしも同じ意見です。それに、わたしはなぜか夕飯をちゃんと食べると太る体質なので、DHCのプロテインかコンビニのおにぎり1個で済ますことが多い。1時間あるなら、1時間余計に勉強できる。

 

女性Aはエスカレートしてきて、「いつも帰らせていただいているお詫びに」と職場で手作りのケーキを振舞うようになる。皆うまいうまいと食べて、やがて彼女にお礼を支払うようになる。

 

「嫌だなあ、これ」。

これって、「好意の押しつけ」「親切の暴力」じゃありませんか。一種のモラハラである。

先般、わたしが友人にされた「頑張っているあなたを褒め称えたかった」と同じである。

 

女性Bは女性Aを嫌っている。で、二谷に近づくが、二人寸前のところで「やっぱ、やめときますか」。

二人は「根っこは似ているが、方向は違っている」のだ。

 

女性Bは二谷を見て思う。

「このひとは、なにを憎んでいるのだろう」。

 

わたしにはすぐにわかった。

広告のキャッチコピーを見て、「『素晴らしさ』って何だよ、『素晴らしい』じゃないか!!」

ハイ、わたしもしょっちゅう何かかにかに突っ込んでいます。

 

「文学」を選ばなかった自分を憎んでいるのだ。

大学入学の時、あとあと楽な生活をおくるために「経済学部」に逃げてしまった自分が許せない。

自分の人生が憎い。

 

そして女性Aのお菓子の押しつけが原因で職場でついにトラブルが起こり、、

 

どこをどう読んでも二谷は女性Aを憎んでいるのだが、その笑顔が「容赦なくかわいい」。

 

うーん。

 

「愛しているが憎んでいる」ではなく、「憎んでいるが一方で愛している」みたいな??

 

予約してから結構待っていたので人気の作品だと思うが、皆どういう印象を受けたのだろう。

結論のない、乾いた文体はわたしには読み心地がよかったです。

人生は「結論のないもの」ですから。

「真っ白に燃え尽きた」あしたのジョーは例外で、幸福だったのです。