わたしは低血圧なのだが、なぜか超のつく朝型で、同じく低血圧だが朝型の友人と
「『低血圧なので朝弱いんです』って言って遅刻する人いるけど、あれ嘘だよねー?」
などと高笑いしていたのですが。
(ちょっとより道:本当に低血圧で起きられない人は、「おめざ」を置いておくといいそうです。枕元から手が届く位置にチョコか飴を置いておいて、目が醒めたらまず口に入れると血糖値があがる・・・とか。)
「季節の変わり目で体調が悪い」などということには全く縁がなかったわたしがなぜか最近頭痛がひどく、「血の巡りをよくしないと」とせっせとジムに通うようになった。
「やっぱりそれなりに年なのだろうか;」
「私は絶対認知症になるのだけは嫌!」と言っている人もやっぱりなってしまうようで。
最近、私も20年後、30年後に「おかあさんのところに帰るぅ」と駄々をこねて施設の人に「はいはい、明日にしましょうね」と宥められている自分の姿が目に浮ぶようになった。
標題は最近、ちょっとブームになりました。
「90過ぎて認知症にならない人は二人に一人」
ほほう。
それでは、102歳までぴんぴんしていたばーちゃんや、94でピンコロしたじーちゃんは例外だったのか。
著者の略歴が面白い。東京外国語大学モンゴル語科。
いや、知り合いにスペイン語科とかイタリア語科とかはいたが・・・。
なぜモンゴル・・・。
認知症の父か「こっち」とか、「あっち」とか言うのを聞いて、「こそあど、とは」と言語学的に分析したり、「父」という語源はもともと、とか、哲学的に分析したりする、どっちかというと「息子はニーチェ」な話である。
終盤、いきなり父は末期の胃がんと判定され、あっけなくこの世を去ってしまうのだが。
息子は、「なんだか、脳の右の方に父がいる気がする・・・。」
それ、わかる。
わたしも母が亡くなって脱力していた2年前、「とにかく外に出ないと」と出かけて、色づいてきた樹木を見て
「あっ、おかあさんがいる」。
空を見て、「あっ、こっちにもおかあさんがいる」。
どこに行ってもいないのに、「どこにでもいる」のだ。
母を看取ったきょうだいは立派な仏教徒となり、「写経」を趣味としています。
このように、非常に哲学的な内容なのだが、最後、伯母に電話すると
「包丁持った女が毎日うちに来るのよー!」
「はいはい、明日見に行きますからね」
という、見事なオチ?がついているのでした。