人間関係の基礎は、親子関係で教わるらしい。
対等な親子関係を築けてきた人は、その後の人間関係も対等に築くことができるのだそうだ。
確かに、誰とでも臆さずに自然な会話をすることができる人っているよね。
私は、人間関係には上下があると教わってきた。上の人間の言うことは絶対に聞かなければならない。たとえ間違っていようが、勘違いしてようが関係ない。
もちろん、親が上で子どもが下である。
ずっと、兄や従兄弟達と比べられ、優劣をつけられるのが当たり前だった。
劣っている人間は、馬鹿にされる。
意見など通らない。
それが普通だった。
そんな私は、大人になってからも、当たり前に周囲の人の能力や立場に優劣をつけるようになっていた。
そして、能力が劣っていると思う人は馬鹿にしてきたし、自分が能力が劣っていると思われることには恐怖しかなかった。
必死に勉強し、必死に仕事を覚え、いつでも誰かより優っている自分でいなければと焦っていた。
あきらかに自分より立場や能力が上の人に対しては、話しかけることすら憚られた。
私のことは馬鹿にしてるだろうし、そもそも興味すらないだろうと思っていた。
だから、自分の考えなど言えるはずが無かった。
話す機会があったら、その人が言って欲しそうな言葉だけを並べたてた。
つまり、媚びへつらっていた。
そんな私が、健全な人間関係など築けるはずはなかった。
私はいつでも嫌われた。
それを、私は「自分の能力が劣っているせいだ」「自分の容姿が悪いせいだ」と思い込んでいた。
だから、資格を取ってみたり、太ってないのにダイエットをしてみたり、洋服ばかり買い漁ってみたり、そんな見当違いの努力ばかりをし続けた。
そんなことを頑張ったって、人間関係がうまくいくはずがなかった。
何も変わらなかった。
私は、誰かにとって利用価値のある人間でいなけれならないんだと思うようになった。
その人の言って欲しい言葉を言い、愚痴を聞いて欲しいと言われればいつでも応じ、プレゼントをしたり、ごちそうしたり…
そうしているうちに、私はただの「都合のいい人」になっていった。
その人の「都合のいい人」でなくなれば嫌われる。それが怖くて、「都合のいい人」をやめられなくなっていった。
きっと、普通の親の元で育っていれば、こんな苦労はしなかったんだろうなと思った。
従兄弟たちのように、対等な親子関係を教わっていたら、こんなに卑屈な人間にならずにすんだんだろうなと思った。
こんなにも、他人の顔色ばかりを伺って、自分より上なのか下なのかなんて、他人の値踏みをするような嫌な人間にならずにすんだんだろうなと思った。
それでも、それに気がつけた。
もしかしたら、私は変われるかもしれない。
自分の親が毒親なんだと認めた時から、そんな希望が少し湧いてきた。