横浜の歴史というと、
佐久間象山が、開港したばかりの伊豆、下田港を横浜に移すとこから話しが始まる。
それよりも、滋賀、井伊直弼の方が有名なとこが、長野県民としては忸怩としたとこはあるだろう。
(記念碑も巨大だし。)
で、象の鼻の港から今の横浜市へと広がったのだが、
横浜の歴史はそんな短くはない。
その前がいきなり縄文時代じゃないよ。
江戸っ子、高島嘉右衛門も横浜からの鉄道敷設に尽力し、発展の礎を築いた。(他にも数多い)

以前に、中世の横浜として太田道灌についてまとめた。日の出町あたりに道灌屋敷があったとか。東京から、横浜、江戸湾と入江を仕切っていたのでしょう。

といえ、まとめが簡単なものであったので、中世横浜の姿をイメージしやすくするため、今一度もう少し詳しく調べてみた。
興味を引くとこが良いので、

上杉家(家臣、太田道灌) VS 伊勢宗瑞(北条早雲)

の攻防にフォーカスした。謎多き室町時代、戦国の夜が明ける。

まず、横浜という土地の見方だが、
当時の横浜あたりは横浜駅付近のふたつの入江と
金沢八景あたりのふたつの入江が価値の中心にあった。
鎌倉時代以前から続く東京湾海運が盛んだったからだろう。中心は久良岐郡。(磯子区)
さらに、江ノ島から柏尾川を登り、南区六ツ川超えで横浜入江に出るルートも活況だったと考えている。
(北部の鶴見川流域は別の郡だが、多摩川を軸としたテリトリーと思われる。)
で、ややこしいのだが、横浜は埼玉県中心の武蔵の国所属なこと。(ほぼ)
横浜南部(港南区)に国境があり、南部は相模の国。
(但し金沢区は武蔵の国)
関東は、北部(群馬、栃木)の街道と南部(神奈川)の街道があり、たぶん北側の勢力が強かったのでしょう。そこを上杉家が支配していた。(但し、山内と扇ガ谷のニ家が争っていた。相模の国も。)
この中で

1432年 太田道灌誕生(埼玉県越生町らしい)
足利幕府成立の百年後、混乱の時代へ。
7歳の時、戦国時代に突入する。

1439年 永享の乱
関東を担当していた足利持氏が独立を目指し、何と敵方上杉家に加勢を依頼、上杉家、関東は大混乱。
(これがきっかけで28年後、応仁の乱→戦国時代へ。)

24歳の時、

1456年 伊勢宗瑞(北条早雲)誕生。
今川家の家臣として関東を狙う。

上杉家混乱するも今川家の動き(特に伊豆)が不穏。
(伊豆にも介入していた。)
上杉家は、
1450年、小机城、蒔田城、権現山城
(旭区、保土ヶ谷区、神奈川区、南区)
(たぶん茅ヶ崎城も。青葉区、都筑区)
道灌は、
1457年、江戸城
を築く。武蔵の国、国境防衛線強化。
伊勢宗瑞はまだ動かない。

実は、太田道灌は優秀過ぎて伊勢原で上杉家に殺されてしまう。53歳。(伊勢宗瑞30歳)
応仁の乱後、室町幕府は求心力を失い、群雄割拠。
道灌は、今後何が起きるかは予見して、進言していたであろう。
また、生きていれば、
伊勢宗瑞との壮絶な戦いが横浜で展開されたものと思われる。(下記の伊勢宗瑞の電撃的動きを参照。)

伊勢宗瑞、今川家の東領地拡大を目指し、行動を開始。
(強敵、道灌が死んだことを好機と思ったのかな。)

1493年、伊豆討伐(道灌死後7年。この間に大地震による大津波で長谷大仏の大仏殿流出。暗示的な。)
1495年、小田原城奪取!
一気に
1509年、江戸城攻め(なんと今川家と決別!)
(東京湾交通奪還が最優先かな。)
1510年、権現山城(京急神奈川駅付近)、三崎城攻め
1512年、神奈川県東部拠点の玉縄城築城。
    (大船駅、柏尾川西の丘)
    (この時、前衛として大岡川沿いに笹下城、支城松本城築城。森、杉田、氷取沢砦構築。(港南、磯子区)任されたのはこの地の豪族(?)間宮氏。後に家康と戦うが、その能力を評価され家臣となった。国防調査隊、間宮林蔵を輩出。
数度行われてきた対岸千葉の里見氏の横浜上陸作戦阻止が狙い。)

1519年、相模の国を平定し伊勢宗瑞死去。63歳。
怒涛の26年。
(この時点での相模原市方面の動きもあっただろうが詳しくわからない。3代目、氏康は、この方面へ展開している。)
(なお、彼は北条を名乗らなかった。2代目から。)

リーダーと軍師を兼ね備えた役者が二人死んでしまったが、ここからが、

上杉家 VS 北条家

の対決が拡大する。
(なお、この「北条」は鎌倉の北条家とは縁もゆかりも無い。ハク付けの「芸名」だったようだ。
ずるくない?下記の戦い参照)

とくると、西から来たよそ者は嫌いと、北条包囲網が構築されていく。

1526年、2代目氏綱動く。八幡宮の戦い

包囲網は、包囲したが動かなかった。
だが、何かの画策か?千葉、里見氏が単独で玉縄城奪取に動く。
横浜の防御は万全だったのだろう(推定)汐入あたりに軍勢上陸、谷合を葉山に抜け、逗子、鎌倉を経て玉縄城を攻める。ただ、柏尾川に阻まれ対峙する状況。

ここで氏綱がとんでもない作戦にでる!

里見氏を八幡宮へ誘導(推定、海を回って鎌倉に上陸し、横から里見氏を突く。)
なんと

里見氏に八幡宮を焼かせてしまう。

集結の詳細は詳しくないが、氏綱は

里見氏が八幡宮を焼いた!

と京都、幕府に言いつけた。(策士だ)
道灌が生きていたら、逆に北条に対しての陽動作戦を展開していたかな。玉縄城を裏手から攻めるとか。
と、ここで終わらない。
北条側は里見氏と敵対する千葉武田氏を加勢し里見氏を退け、お礼に貰った大量の木材で14年後に八幡宮を再建、

「どうだ、凄いだろう!」

関東人の人気を得る作戦だったが、その反応は未知。
威圧はしたかな。

さて、ここからは横浜をスルーされるのだが、
北条家を絶頂に導く3代目は

1530年、小沢原の戦いで初陣
(京王、よみうりランド前駅近く)

を飾り、有名な

1546年、河越の夜襲
上杉氏と和睦を結ぶと見せかけて接近、夜半に突入。
(その後、

1583年、人流川の戦い
1584年、沼尻の戦い

群馬、栃木南部で大規模な戦闘を繰り広げている。
(関ヶ原の戦いレベル) 関東ほぼ掌握。)

で、ほぼ武蔵の国(とその北部)を支配下に置くのだが、氏康の時代、非常事態発生。

1534年、織田信長誕生
1537年、豊臣秀吉誕生
1543年、徳川家康誕生
1546年、黒田官兵衛誕生

1558年、三好長慶が天下統一(畿内)
1560年、桶狭間の戦い
1573年、信長により天下再統一!(二番目ですよ。)

1590年、小田原攻め
(関東人は誰も加勢しなかった。嫌われてたんでしょうね。行田の、のぼう様は関係なく単独行動したが敗退。)
(堅牢だった城構えは、心理戦には効果なかった。というか官兵衛の心理読みが穿っていた。)

信じて止まなかった中世が終わりを告げる。
勢いの北条氏、価値観の大転換までは読めず、対処もできてなかったんですね。
(ポルトガル宣教師も面会に来ていたでしょう。それを日本支配の諜報活動と見抜けたかどうか、、、
日本を統一国家にしないと危険だ、そのためには、、)
(今川氏、武田氏は何故滅んだのか、その理由を感じ取れたのかどうか。)

そのど真ん中に大勝負、家康が乗り込んで来る。

まあ、相手方の軍師の能力が半端じゃなかった。
官兵衛、74戦無敗。
戦闘の勝敗は軍師の才能とリーダーの決断力で決まるが、関東の軍師に道灌以外でどんな人がいたのでしょうか。出版社の社長さん、本作ってよ。
で、
関東を含めた中世日本史にしてもらいたいものだ。
(関東に限定したものはあるが、ローカル史じゃない、日本史を動かすパワーがあった。)

横浜中世史をはみ出てしまったが、全体像はイメージしていただけたでしょうか。