【エンターテインメント小説と思うなかれ】ジーキル博士とハイド氏/スティーヴンソン【のちきち】 | 本気の本読み:あなたの伝える力を伸ばすグループ運営書評サイト

【エンターテインメント小説と思うなかれ】ジーキル博士とハイド氏/スティーヴンソン【のちきち】

おはようございます。のちきちです。

実はですね、この名前、本名ではありません。
由来はというと、伏見稲荷大社で御神籤を引いたところ「後吉」だったから。

単純ですな得意げ

ちなみに、吉のランクでいうと、凶の一歩手前らしいね。

まあ、後は自分で努力して、大吉にしなさいと。
そういうことなんでしょう。

リアルでもこう呼ばれているので、このように、ペンネームにしています。

ジーキル博士とハイド氏 (光文社古典新訳文庫)/ロバート・ルイス スティーヴンスン



¥560

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今日は、スティーヴンソンの『ジーキル博士とハイド氏』 をご紹介します。
「二重人格の代名詞」と呼ばれるほど、有名な作品ですね。

あらすじ
街中で少女を踏みつけ、平然としている凶悪な男ハイド。彼は高潔な紳士として名高いジーキル博士の家に出入りするようになった。二人にどんな関係が? 弁護士アタスンは好奇心から調査を開始するが、そんな折、ついにハイドによる殺人事件が引き起こされる!


著者のスティーヴンソンは、1850年に、イギリスのスコットランドで生まれました。

時代でいえば、イギリスの産業革命を皮切りに、ヨーロッパ諸国が工業化へと乗り出す時代。
また、科学の進歩によって、人間が科学偏重主義へと傾倒していく時代でもあります。

それまでのヨーロッパというのは、キリスト教が人々の生活の中心にありました。
つまり、人々は、キリスト教的モラルを遵守していたんですね。

しかし、科学の前では、非科学的なものは許されません。
あっても否定されるわけで。

だから、この時代では、キリスト教の力が一気に衰えましたダウン
問題は、これによって、キリスト教的モラルまで弱体化してしまったことにあります。



なぜ問題なのか、ちょっと説明してみましょう。

アリストテレスが言うように、人間は「社会的動物」です。
社会を形成して、そのなかで生きるものが、人間なんですね。

動物は、動物本能の赴くままに生きていますが、人間は、この動物本能を自制して、
「文化の体現者」として生きなければなりません。

例えば、誰だって一度は「悪いことをしでかしたい」と考えたりするものです。
でも、それをしないのは、本能を抑えこむ自制心が働くからなんですね。

このように、社会で生きるためには、動物本能を制する何かが必要なんです。

ヨーロッパの場合は、それがキリスト教的モラルでした。
でも、この時代には、それがなくなってしまったと。

これがまずかった。

自分を制するものがないと、人間は自分勝手に生きるようになります。
だって、自制心が働かないんだから。
動物本能は剥き出しになってしまう。

これはズバリ、人間の動物化なんです。
自分さえ良ければそれで良いって考えだから、社会を考慮する必要もないんですね。



工業化と言えば聞こえがいいですが、スティーヴンソンの生きた時代は、
このように人間が堕落していく時代でもありました。

となれば、彼が描きたいものが、見えてきますよねはてなマーク

重要なのは、今でこそ「エンターテインメント小説」として扱われていますが、実はそうじゃないということ。

彼は、人間がいずれ理性を失い、動物に二重人格化することを予見していたんです。
だから、二重人格をテーマに、この小説を書いたと。

例えば、ハイド(hyde)という名前は、隠れる「hide」に掛けたものですが、
この「hide」と同じスペリングには「獣皮」という意味もあります。
つまりこの名前は、ハイドの動物性を表しているんですね。

また、Jekyllという名前は、フランス語の一人称「Je」と英語の「kill」の混成語といわれています。
自分(Je)を殺す(kill)から、ジーキルという名前なんです。

というのも、二重人格の恐ろしいところは、
自分の間違いを知りながらも、それを自制できないところにあります。

ジーキル博士もそうでした。
ハイドの悪行に戦慄を覚えながらも、ハイドになりたい気持ちを押さえられなかったんです。

それどころか、

わたしは二重人格者の最たるものではあったが、決して偽善者ではなかった。わたしの両面は、どちらも真剣そのものだった。


と、開き直ってすらいる。
ハイドになる自分はまだしも、残虐なハイドまで正当化しちゃうから驚きです。
こうなると、もうアウトですね。
あとはもう堕ちていくしかない。

このように、自分中心に生きる思想というのは、自分を殺す思想でもあるんです。


しかし悲しいかな、現代人もまた、ジーキルなんですよ。
現代は、まさにスティーヴンソンが恐れていた時代ですから。
その証拠に、自分中心の人生を築き上げることが正しいという風潮が蔓延しています。
でもこれは、間違いなんです。

だって、社会では通用しませんから。特に仕事はそう。
「こんな仕事、私はやりたくありません」なんて言ったら、上司にぶん殴られますよ。
ヘタすりゃクビです。

でも今は、そういうことを平気で口にする人たちがいるわけで。
そう考えると、恐ろしい時代になったもんですね。

時代の変遷とともに、世の中は、確かに豊かになりました。
でも、それは物質面に限っての話なんですね。
人の心は、貧相になっていくばかりなんです。
こうした事実に、そろそろ私たちは気付かなければなりません。


◆あとがき

実は、スティーヴンソンをはじめ、1800年代を生きた教養人の多くが、
この思想の危険性に警鐘を鳴らしています。

例えば、ドストエフスキーがそうです。

ドストエフスキーは、『罪と罰』(1866年)の中で、理屈でもって殺人を正当化しようとするラスコーリニコフを描きました。

(『罪と罰』は、以前紹介しています。興味があれば、一読してみてください)
http://ameblo.jp/honkinohonyomi/entry-10635356777.html


論理的にいえば、ラスコーリニコフの犯罪理論は、間違っていません。
でも、モラルに反していた。
だから結局、彼は自滅することになる。

この作品は、自分大好き人間が自壊していく様を描いた作品でもあるんです。

また、ニーチェもそう。
彼は、『善悪の彼岸』(1886年)の一節にこう書いています。

怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。


ニーチェもまた知っていたんですね。
自分の内面を見つめる思想が、必ず怪物を見出してしまうことに・・・。