【古典】罪と罰/ドストエフスキー【のちきち】 | 本気の本読み:あなたの伝える力を伸ばすグループ運営書評サイト

【古典】罪と罰/ドストエフスキー【のちきち】

よいや~なぜに~むげんと~び~は~い音譜




8月24日、アニメ監督の今敏氏が、すい臓がんのため、亡くなりました。
享年46歳。あまりにも早過ぎます。

冒頭の曲は、彼の監督作「パプリカ」のテーマソング「白虎野の娘」です。

追悼の意を込めて、ここに転載しました。
この曲を流すことで、氏の旅立ちに一献を添えたいと思います。
大好きな監督だっただけに、本当に残念でなりません。

この場を借りて、ご冥福をお祈りいたします。

罪と罰〈1〉 (光文社古典新訳文庫)/フョードル・ミハイロヴィチ ドストエフスキー

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今日は、ドストエフスキーの代表作『罪と罰』をご紹介したいと思います。

文学のなかでも、世界最高峰といわれている作品です。

あらすじ
貧しさゆえに学費が払えず、大学を中退した主人公ラスコーリニコフ。彼は、重度の鬱病をわずらい、鬱屈した気持ちから、現状への不満を募らせていきます。救いを求めているものの、自分から何か行動を起こすわけでもない。かといって、神を信じていないので、宗教に救いを見出すこともない。部屋に一日中ひきこもっており、まさに死人も同然のダメニートです。そんなある日、彼は、金貸しの老婆を殺害し、奪った金を、世のため人のために使おうと企みます。「金貸しの老婆一人の命と引き換えに、自分を含め多くの人が救われるのであれば、それは正義といえる」「非凡人は、自分の尊い思想のためには、心の中で良心に従って、人を殺すことも厭わない」。こうした犯罪理論を盾に、彼は、自分の殺人願望を正当化していきます。傲慢さゆえに、自分が非凡人であることを疑わないラスコーリニコフ。自分の主義を貫くことで自分が救われると信じた彼は、自分が非凡人であることを証明するために、ついに殺人を決意するのです。


作中には、偶然性に満ちたシーンが、幾つも登場します。

例えば、最初のほうで、ラスコーリニコフが、完全殺人の助けとなる有力な情報を得る場面。
彼は、ふとした気まぐれから、いつもとは違う道を迂回したところ、
偶然にも、この場面に出くわすことになります。

そして、この偶然が発端となり、彼は殺害を実行するのです。

また、殺害現場に予期せぬ来客が訪れたことで、危うく現行犯で捕まりそうになる場面。
ここでも彼は、さまざまな偶然に助けられ、間一髪のところで、
逃げ切ることができるのです。

以降も多くの偶然が重なることで、物語は、複雑かつ面白い形に発展していきます。

ぼくは、初めてこの本を読んだとき、この偶然性に何か引っ掛かるものを感じました。
無論、小説において、“偶然”はよく用いられます。話をドラマチックに演出するために、“偶然”は欠かせないものだからです。

しかし、この作品の偶然性には、何かそれだけでは説明がつかない妙な感触がありました。
ドストエフスキーのことだから、この偶然性には、きっと何か意味があるに違いない。
そう勘ぐって読むものの、「これだ」と思える決め手は見つからない。
いやいや、そんなことはない。きっと何かあるはず。
とまあ、そんなこんなで手を尽くしましたが、見つからず。

結局、最後は「単なる自分の思い過ごし」という何ともみじめな結論に至りましたガーン

しかし、この件は、思わぬ形で、解決へと向かうのです。

鍵は、今敏監督が握っていました。

監督の作品の一つに「東京ゴッドファーザーズ」というアニメ映画があります。

東京ゴッドファーザーズ [DVD]/江守徹,梅垣義明,岡本綾

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冒頭でも述べたように、8月24日、監督は帰らぬ人となりました。

ぼくは、哀悼の意を表し、「東京ゴッドファーザーズ」を観たわけですが、
ふとした思い(まさに偶然です)から、この映画のオフィシャルサイトに足を運んだのです。
ここに、解決の糸口がありました。

サイトには、次の二つの文が載っています。

監督コメント
何故起こるのかは分かりませんが、それは世に遍在しています。
「奇跡と偶然」
しかし当事者にとって、いかに神秘や運命を感じさせる出来事も、我が物顔に世界をおおっている論理性や合理性という「官軍」の前には勝ち目がありません。
「証拠は? 根拠は? ない? 何と非科学的な!」
これら科学の論理兵器によって異界へと押しやられた「奇跡と偶然」を健全に回復しようというのが本作の試みです。


メイキング
『東京ゴッドファーザーズ』は、どんな風に動き出したのか?
その企画成立の様子を伝える文章がある。「意味のある偶然の一致にあふれた世界/今 敏」と題されたそれは、いわゆるひとつの「監督ノート」である。


この二つを見たとき、「ああ、ドストエフスキーの偶然性は、これに違いないビックリマーク」というインスピレーションが、脳裏によぎりました。

この閃きは、単なる思いつきから、ちょっとした確信へと変わります。
何よりの決定打となったのは、映画の冒頭に、
ドストエフスキーの文学選集が出てくるシーンがあることです。

なぜドストエフスキーの名前を出したのか。
そこには、間違いなく、監督の意図が潜んでいます。

完全な憶測になりますが、おそらく監督は、ドストエフスキーの描く「偶然性」をモチーフにして、この映画のプロットをつくったのではないかと考えられます。

仮にそうだとすれば、この「偶然性」について、ある一つの仮説を立てることができそうです。


ラスコーリニコフは、自分の主義によって、老婆を殺害しました。
けれども、彼は後に、この主義が、(当然ですが)間違っていることに気付きます。
そして、自分が非凡人どころか、自分でも信じられないほど弱い人間だと理解します。

これら揺るぎない事実によって、彼の自我は崩壊し、彼は発狂しかけるのです。

先にも述べたように、数々の偶然は最初、ラスコーリニコフにとって有利に働いていました。
そのため、彼は「この偶然が自分を味方している」と勘違いし、犯行に及びます。

しかし、偶然の悪戯によって、計画に無関係なリザヴェータまで殺した瞬間、彼は、罪の意識に苦しめられることになり、自分の勘違いを嫌というほど思い知らされます。

こうした偶然の悪戯は、それ以降も、彼の運命を翻弄していくのです。

彼は考えます。
刑罰を屁とも思わないおれが、なぜこうも怯えなければならないのか。
神を信じないおれが、なぜこうも苦しまなければならないのか。
おれが感じる苦しみは、いったいどこからきているのか。
そして、この状況から救われるにはどうすればいいのか。

考えに考え抜いた末、彼は、「生命の秩序」(ドストエフスキー研究家の言葉を借りれば「ロシアの大地」)を見出し、この秩序から自分が外れてしまったことを知るのです。

「ロシアの大地」。これは、ドストエフスキー作品を理解するうえで、重要なキーワードになります。人によって、解釈が分かれるところですが、ここでは、「生命の秩序」とします。人を殺すことは、生命の秩序を乱すことに他なりません。もしこの秩序を乱すと、この秩序の形成者によって、たちどころに天罰がくだる仕組みです。この世界には、「神」や「法律」によって作られた秩序だけでなく、何者かによって作られた「生命の秩序」がある。ドストエフスキーは、こう信じていたのです。


ラスコーリニコフは、この「ロシアの大地」を汚してしまったことで、天罰がくだります。
この「罰」によって、彼は、堪えがたい屈辱を味わい、良心の呵責に絶えず責められるのです。
良心に従って、殺人を犯したはずの彼は、皮肉にもこの良心に苦しめられるのです。

そしてついに、この秩序から自分が逃げられないことを確信した彼は、自分の「罪」と真剣に向きあおうとします。

ここに人間回復の壮大なドラマがあるのです。


はい、ここからが僕の仮説です。
おそらく、ドストエフスキーは悩んだと思います。
自分の信じる秩序に、説得力を持たせ、神秘性を高めるためにはどうすればいいのか、と。

なぜなら、この秩序は、とんでもなく非科学的だからです。
科学が支配する世界では、邪魔にしかなりません。
もしそのままの形で描けば、必ず証明を迫られることになります。
もちろん当時の彼に、これを証明することはできません。

しかし、彼はどうしてもこの秩序を描きたかった。

そこで、偶然に目をつけたのです。
偶然は、ときに奇蹟を起こします。
そして、どんなに奇蹟を起こそうとも、「偶然」の一言で片付けられる都合の良さがあります。

悩んだ末、彼は、この「偶然」に秩序の全てを託しました。

もしこれが事実だとするならば、彼なりの苦肉の策でしょう。
しかし、リアリストだった彼にとって、非科学的なものは、こうやって表現するしかありませんでした。

もしかすると、ドストエフスキーは、今監督のいう「意味のある偶然の一致にあふれた世界」を本当は描きたくなかったのかも知れません。


ドストエフスキーが、ラスコーリニコフに何を託したのか。

本来は、これを読み解くことに、この作品の真価があります。

しかし、このように話の脇役に過ぎない「偶然性」というキーワード一つとっても、著者によって計算され尽くした見事なカラクリを見ることができます。これもまた、この作品の見所の一つといえるでしょう。

とにかく重厚です。濃密です。

読み応えがあるとか、そんな生易しいものではありません。
読む人の人生観を押し拡げるような、強烈なインパクトを備えた作品です。

ぜひ自分なりに読んで、価値を見出してもらえれば、と思います。