「天皇中心の神の国」は神話!<本澤二郎の「日本の風景」(3476)

<田布施・日本会議の野望を断ち切れるか>

 明治を演出した長州(安倍)と薩摩(小泉)の田布施は、どうみても怪しい。カルトの靖国・伊勢・出雲の天皇教を中心に、生長の家や統一教会も関係していることが、ここにきて分かってきた。新天皇即位の漫画チックな宗教儀式は、キリスト教徒のみならず、異様で、違和感を覚える国民は多い。国事行為を完全に逸脱したもので、その経費は皇室が負担すべきものだ。

 これの作・演出は、日本会議の手口であろう。森喜朗という不見識な政治屋が首相時代、神道政治連盟の会合で吐いた「天皇中心の神の国」という神話論を、具体的に見せつけたものに相違ない。戦後の日本民主主義を否定したものだ。その責任は重い。

 

<天皇元首化向けの166億円儀式は憲法違反>

 大陸や半島の皇帝や王朝方式を寄せ集めた、明治の役人による物まねであろうが、古式蒼然とした分厚い服装を、初めて着せられた雅子妃の表情は、珍しくひきつっていたように感じた。相当きつい忍耐を要求されたのであろう。

 

 こんなことは21世紀の民主国家がやる必要などない。象徴であって、元首ではない。日本会議など天皇教信者が、神格化による元首を実現しようとしているが、現代の日本人はそれほど愚かではない。

 

 繰り返し指摘しておきたい。166億円の宗教儀式は、政教分離の憲法に違反する。秋篠宮が主張する「皇室経費」で対応すべきだ。今からでも遅くない。莫大な昭和天皇の遺産の一部で、十分、賄える費用であって、貧しい民の負担を強いることは、間違っている。

 

 人々の生活は、10%消費税という大増税と世界的不況で疲弊している。そこに地球温暖化による強力な台風、そして311の放射能被害で、先行き不透明である。そんなときの166億円の天皇交代劇である。

 

 天皇制に疑問を抱く国民は、少なくない。

 

<日本国憲法=国民は平等・上下の差否定>

 日本国憲法は、近代法に従って、当然のように国民はみな平等である。皇室も、である。ただ、天皇に限ってのみ「国民統合の象徴」としている。断じて元首ではない。勘違いしている国民は、天皇教信者ばかりだ。

 「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」である。当時の世界的常識を福沢諭吉でさえも「学問ノススメ」の冒頭に紹介している。

 

 主権は国民にある。そうすると、10・22の天皇の対応は、おかしい。間違っている。数段高い場所から、国民の代表である首相を見下している。というよりも、安倍・日本会議の設定であろうが、政府が天皇を押し上げて、それを良しとしている。

 日本会議に操られている日本政府は、間違ったことをしている。三権の長がはるか下に控えて、かしこまっているのである。滑稽である。漫画と断定する理由である。

 

<数段低いところで首相の「万歳三唱」は漫画>

 ネットでは、安倍が敷居を踏んでいる、と抗議する天皇教信者の言い分を紹介している。どうでもよいことを問題にしている。

 

 第一、よく見れば敷居ではない。安倍の立ち位置を特定するための印である。

 

 重大事は、主権者である国民の代表が、天皇よりも数段低い場所に押し込められたことが、憲法の原則に違反している。主権者は、日本会議主導の宗教儀式に惑わされてはならない。

 

 違憲違法の「即位礼」と断罪するほかない。

 

<菅原一秀の任命責任と検察捜査責任>

 内外に披露した新天皇の披露宴は、天も喜んでくれなかった。最悪の天候で、広大な皇居の庭園の出番はなかった。そこへ降ってわいた経済産業大臣・菅原一秀の相次ぐ違法行為が、新聞ではなく週刊誌が暴いた。

 昔なら内部告発者は、新聞に駆け込むのだが、今は新聞が動かない。やむなく週刊誌に押しかけることになる。そうして官房長官の菅と幹事長の二階が、強引に安倍に押し付けた菅原一秀の経済産業相問題で、安倍と菅・二階の権力抗争へと火が付いた。

 安倍にとっての、晴れがましいはずの気分も吹っ飛んでしまった。菅と安倍の戦いには、よたつく二階が菅に肩入れしている。

 任命責任は安倍晋三である。同時に、捜査責任は東京地検。永田町はただならぬ雰囲気に包まれている。菅原辞表で、関電疑獄の片が付く問題ではない。号外大好きな読売が、号外を出せばいいのだが?それはない!

20191025日記(東京タイムズ元政治部長・政治評論家・日本記者クラブ会員)