東方神起「TREE」歌詞考察 ーシェル・シルヴァスタインとTREEー | 東方の神が起き上がる瞬間

東方の神が起き上がる瞬間

東方神起をオタクに地味に考察しています。最新情報を追ったり紹介はしていないけど、ひとつのことを長くかみしめ、長く味わうwがテーマ。・・・なんてね。

日付が変わってしまったけど、3月14日はホワイトデー。日本生まれの「愛のお返しデー」です。お返し、という発想がすでに日本的な感じがするよね^^;


だからという訳じゃないけど、ananのインタビューにからんで、お返しを求めない愛(笑)についての話。

このインタビューで、思いがけない言葉と出会ってしまい、音楽というより、歌詞について考えたくなった、例によって例のごとく、なが~い記事です。


お時間のある時にどーぞ(笑)


●”メロディは外見で、歌詞は内面”


突然だけど、ヒュー・グラントとドリュー・バリモアの「ラブソングができるまで」という映画は見たことがあるでしょうか?


落ち目のミュージシャンのヒュー・グラントが、ふとしたきっかけで、言葉のセンスが抜群な女性ドリュー・バリモアと出会い、作詞のセンスがあると直感、2人で組んで歌を作ろうとすることが中心となったストーリー。


その中に、こんな感じのセリフがあるのね。


「メロディは外見で、歌詞は内面みたいなものよ。最初は、外見で人を好きになこともあるけど、愛が続く為には、中身がからっぽだったらダメじゃないかしら?」


うーんうまい(笑)!

この映画、音楽ファンとしても楽しめるラブストーリーなんだけど、こんなセリフは音楽の本質をついているからこそ、グッときちゃうのだ。


たとえば、2010年あたりのKPOPブームの時は、色んなKPOPスターが日本で韓国曲に日本語詞をつけてリリースしたけど、歌詞まで愛された韓国出身のスターはどれくらいいるのか、微妙な所だと思う。


東方神起にした所で、韓国で出した曲に後から日本語詞をつけたものには、正直いってそれ程牽引力はないけれど、東方神起のいい所は、日本語で歌うことを前提に作られた曲を歌うがゆえに、言葉に力がある所かなって思うんだ。


今は歌の言葉って、どんどん価値が低くなっていて、作詞家がメッセージをこめて作るものよりも、曲だけできあがっていて、後から音に合わせて、言葉をはめこむスタイルが多いそーな。


なぜって言葉には”時代”が反映されるから。

そしてCDが売れない今の音楽業界は、”流行りの音楽”でないと、なかなか商業ベースに乗らないから。


でも、流行りに合わせた曲は、結局のところ、流行のサイクルとともに消えて行ってしまう。

それなら言葉は軽くていい。短くて、それでいて印象的で、キャッチコピーのような、フック性のある言葉を並べるだけでいい。


・・・そういう空気のせいか、専門の作詞家というのはめっきり少なくなって、東方神起を担当するH.U.Bさんもそうだけど、コピーライター系の人が多く活躍している今、

独自の世界観を歌の言葉で組み立てていた、銀色夏生さんだとか、


メッセージ性を極力排除しつつ、メルヘンチックな世界を言葉で作るのがウマかった松本隆さんだとか、


直接的な表現はほとんどないにも関わらずセクシーさを感じさせる、心を愛撫するような言葉がうまい松井五郎さんのような、存在感ある作詞家はなかなか出てきていないように感じる。


でも本当は、歌詞まで愛したいのだ、私たちは(笑)。

ダンス曲の流行とともに、言葉遊びのような歌詞が増えて、それはそれで、楽しいし面白い。


だけど同時に、歌の言葉だからこそ、響いてくる。そんな歌詞と出会いたいと思いながら、多くの音楽ファンはアルバムを聴くんじゃないかな。


・・・・なんてことを考えていた矢先に、今月号のananの東方神起のインタビューを読んでいたら、もう一度TREEの歌詞カードを読まなければ!という思いにかられる言葉がありました。


それが、タイトル「TREE」の由来を説明する所なのね。




よみがえる”the givng tree”


発売中の雑誌なので、詳細は購入して読んでもらうとして、


まずユノがアルバムタイトル”TREE”の由来を尋ねられて、「ファンの皆様からいただいた愛を栄養にして、おおきな木に成長した東方神起の木」という話をすると、それを受けてチャンミンがこう言う。


「今、「おおきな木」という言葉が出たんですけど、シェル・シルヴァスタインという作家の「おおきな木」をモチーフにしているんです!少年とりんごの木を描いた物語です!その物語に登場する木のように、音楽を通して、皆さんにすべてを与えたいという意味も込められています。」



え!シェル・シルヴァスタイン?ええっ!「おおきな木」!?えー・・・・そうなの?”TREE”のモチーフは、シルヴァスタインの、”The giving tree”(邦題「おおきな木」)なの~~???


普段ほとんど雑誌類は買わないようにしている私は、当然のように(笑)コンビニでananを立ち読みしていたのだけど、このチャンミンの一言が目に飛び込んだ瞬間、目の前に、あの緑が基調になった装帖の、本田きんいちろう訳の絵本がよみがえってきてしまい、いてもたってもいられなくなった。


少年に自らを与え続けて、最後には小さな切り株だけになってしまう木の、今はもうない枝も、実らせることもないリンゴの実も、想像の力の中でむくむくと起き上がり、一本の木が自分の足元から蘇って、大きな木の元に今自分が立っているような、そんな錯覚がして、思わず買ってしまったanan!(←そんな理由で買う人もいるとはanan編集部もべっくらこくであろうよ)


・・・いいんだ、ポストカード欲しかったし。無駄遣いじゃないよ、自分。


なんといっても、シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」は、私が実家から嫁入りとともに持ってきた数多くの絵本・本の中の、大切な一冊だったから。


もちろん訳は本田きんいちろう氏。(1999年没。現在は村上春樹訳が出てますゼ)























内容はとてもシンプル。


小さな少年は、このりんごの木が大好きで、木の側でよく遊ぶ。木もまた、この少年を大切なものに思っていて、様々なものを”与える”のだ。


でも、少年は成長するとともに、少しずつ木を顧みなくなっていく。

恋人ができ、家族ができ・・・。


彼は困った時だけ木をたずねる。お金が欲しいと言われれば、木は、自分のりんごの実をもいで売るといい、という。

そうすると少年は、木に実っているりんごを、全部もいでしまう。

”き は それで うれしかった”


家が欲しいと言われれば、木は、自分の枝を持っていっていいと言う。

そうすると少年は、木の枝を全て伐ってしまう。

”き は それで うれしかった”


そうして長い間木の元を訪れなくなっていた、もう、くたびれた大人になっていた少年は、久しぶりに訪ねてきて、今度はこう言う。


「もう何もかも疲れた。どこか遠くへ行きたい。」すると木は、それなら自分の幹を切り倒して、舟を作るといいと言う。


かつて少年だった、くたびれた中年男は、木を根本から伐採してしまう。

切り株だけになってしまった木。そして男は、舟を作り、遠くへ、海の向こうへと旅立ってしまう・・・・切り株だけとなってしまった木を置き去りにして。

”き は それで うれしかった   でも ほんとかな?”


最初にこの本を父の書棚から見つけて、子供時代に読んだ時は、木がかわいそうで、かわいそうで、どうしてそんなに何もかもあげてしまうのか、全く理解できなかった。


自分を与え続ける優しい木に対して、なんの感謝もあらわさない少年は、あまりに薄情に思えたし、そんな男に、どうして木は尽くすのか、憤りさえ感じた。


それでも、最後に老人となった男は、木の元に帰ってくるのだ。


もう何もあげられない、という木に対して、もう何も欲しくない、と答える男。ただ、座って休む場所がほしいという男に、木は嬉しそうに言う。”それなら私に座ってやすみなさい”


この物語はハッピーエンドなんだろうか?


何もあげるものをもたなくなった木と、たくさんのものを欲しがったあげく、何も欲しくなくなった男は、最後によりそう瞬間、本当に”幸せ”を感じているのだろうか。




与える喜び


この、与え続ける木が何を象徴していると思うか、と言う事を調べた興味深い調査があって、それによると、国によって受け取り方は違う。


日本や韓国では圧倒的多数の人がこの木に「母親」の象徴を見る。

実際、国内には、子どもを持って初めて、木の感じていた喜びがわかった、という感想を持つ人が多い。


でもイギリスでは、この木は「神」の象徴となる。

どこまでも深い神の愛と、それに気づかずに甘えきったまま、自分勝手な行動を繰り返す人間。


木は自然の象徴だと見る国もある。人類にかけがえのない恵みを与えてくれる自然と、それを顧みず、自然を破壊してしまう人類。


共通しているのは、「木」はとにかく与える者の象徴なのだ。与えることに喜びを見出すものの。それが母親であれ、神であれ、自然であれ。


「木」が与えるものの象徴で、チャンミンの言葉のように「音楽を通して、ファンに全てを与えたい」と思ったからこそ、タイトルが「TREE」なんだとして、それはどんな風に歌の言葉につながっているんだろうか?


そう興味を持ったのは、元々、あの絵本の最後はハッピーエンドなんだろうか?と長年感じていた疑問の答えにつながるものを、求めていたからかもしれない。


与え続けるものと与えられたものが最後にたどりつく場所。

そこに本当に幸せはあるのか。

それを、歌を作る人達は、日本語でどう考えたんだろう。



〇 ポジティブ&パワフルさに満ちたTREE


”与えるもの”という目線で見てみると、TREEに集められた歌詞には、確かに、ポジティブでパワフルなものが多い。


1曲めの”I love you”は最初から、言葉にできない程の愛を歌にして「君」に届けたい、と願う言葉。


2曲目のChampionはパワフルさの象徴。タイトルからしてチャンピオンだけど、このチャンピオンのスケールはでかい。何しろ「天上天下追随を許さない」んだゼ。町内会とか県大会とか言ってるレベルじゃねえ(笑)!天上天下。先生、こいつ無敵ッス!ぶるぶる。


3曲目のBreeding poisonは、意外にも歌詞を読むと、「お金」に支配された社会に希望なんてないと歌う、真っ当な「危険分子」なんだね、増殖していくのは。

人工的で、欲望が支配する社会の「仮面を剥がしてやれ」と挑発する、「危険分子」。悪ぶって見えたけど実はええ子や?


彼女と遊ぶ金が欲しい~、家が欲しいと言っちゃあ、「木」からりんごや枝をもぎとっていく欲望の塊のような少年よ、目を覚ませって所かな?うん、君は体内の危険分子をもっと増殖させとくよーに。


「Cheering」「GoodDays」はもうタイトルからしてそうだけど、「君」をひたすら励ましてくれる言葉に満ちているし、「GOOD DAYS」は「明日は きっと見出せる In me and you(僕と君の中に)」と、支えようとする者と支えられる者の間に、未来は開けて行くんだ、というメッセージに満ちている。


こんな調子で、実はあんまり、切なさとか悲しさといったものとは無縁の歌詞世界が広がっているのが、「TREE」だったのだね。


もちろん、時には「SOMETHING」のような、軽いノリの「拒否れない」奴もいるけれども(笑)、そこは韓国リード曲は入れなきゃならないノルマを抱えているだけに、きれいに収めきれない所ではある。


でもそれ以外はポジティブソングなんだよね。何しろ、タイトルだけなら、どう考えたってバラードだろうっていう「信じるまま」だって、ギンギンに踊らせつつ「異次元のルートをこじ開け」て、「損得じゃなくこだわるやり方」で「貫き通す生き方」を歌ってる。


おお。BreedingPoisonで歌われた通り、お金を巡って奪い合う社会の仮面をはぎ取って、増殖する危険分子、「信じるまま」生きてるではないかー!ポジティブ―!パワフル―!!←

こうなりゃ、カネが全ての社会の薄汚い仮面なんて、「脱ぎ捨て」「燃やし尽く」すまで(「Crazy Crazy Crazy」)!


別れのその瞬間も「愛はいつも胸にあるから」と笑顔を崩さない姿勢(「Good Bye for now」)、みごとなり、りんごの木!じゃなくて、TREE(笑)



 シェル・シルヴァスタインから、

        TREEにこめられた祈り


さて、そんなポジティブシンキングに満ちたメッセージを多くつめこんだTREEの中でも、ひときわ、見返りを求めない愛の関係を歌ったのが「TREE OF LIFE」と「愛をもっと」だろう。

おお。井上慎二郎vs山本加津彦!


この2人は、まるで国語の先生から「見返りを求めない愛をテーマに、明日までに詩を書いてくるよーに!」と言われたかのごとく、「与える愛」についての自分の考えを歌の言葉で表現している。


シェル・シルヴァスタインの「おおきな木」が、なぜ、見返りを求めず、少年に与え続けて喜びを感じているのか、それは文中で語られることはない。

それは読んだあなたが考えてごらん、と課題を投げかけているのだ。


らを切り倒させ、それでもって自分から離れて行く少年を見守る木。

「きは それで うれしかった」・・・・・「でも」、と本田きんいちろう訳は続く。

「でも ほんとかな?」


なぜ、そんなにも、与え続けることができるの?


井上慎二郎さんは、こう言葉を並べる。

「紡いだ愛こそが 大きな木を支えた /与えることだけではなく 与えられるだけでもなく」


愛を与えることができるのは、与えられたから。

木は、何もない所から愛を与えるんじゃない。与える者は、与えられる者でもあるんだよ、と歌う。


シェル・シルヴァシュタインの「おおきな木」に当てはめるなら、少年と木は、表裏一体の存在なのだ。少年は木から与えられているだけではない、少年が木を愛したからこそ、木は少年を愛す。

だから老いてよぼよぼになった少年は、最後に、木の元に戻ってくるのだ。


その循環する愛の形は、命そのものでもある。


「名も無い双葉」でしかないか弱き存在が愛を受けて大木に育っていく「奇跡」、やがて冬になり、茂った葉を全て落とした後も、「新たな種が息吹く」、命の交わる場所。


だからこそ、そこは「僕たち」が出会い、「生」を育む場所になる。


「おおきな木」の最期の場面、切り株だけになってしまった木と、そこに腰かける老人となった少年の姿。

ああ、やっぱりあれはハッピーエンドなのかな、と思う。


男の命が尽きても、木はその太い幹を失っても、やがて再び芽吹く日がやってくるのかもしれない。

再び老いた男は少年となり、木は、たわわにりんごを実らせる為に枝を伸ばす日が。


「守りたい奇跡が そう ここにある。」

大丈夫だよ、そこで何も終わりはしないんだ、永遠に続くんだよ、という優しいメッセージがその言葉にはこめられている。


対する山本加津彦さんの「愛をもっと」では、愛の本質は与えることの喜びにあると歌っている。

なぜ、与えることができるのか、ではない。そもそも、愛とは、与えることによって喜びを感じられるものなんだ、と。


最初に「僕」は歌う、もしも「僕」が世界に1人だったら、「僕」の想いはどこへたどり着くというのか。誰のために笑ったり泣いたりすればいいんだい?と。


愛する誰かがいるから、「僕のすべてが意味を持った」と感じる「僕」は、愛とはそのように、与えることに意味がある、と感じている。


「おおきな木」で言えば、少年に自らを与えるたびに木が感じる喜びーー「きは それで うれしかった」という言葉は、本心なのだ。

・・・・たとえ、愛を与えた者が、自分の元を去る日がやってきて、寂しさを耐えなければならない日が来るとしても。


どうして、遠くへ行きたいと願ったあの時、木は少年を行かせてしまったのか。

まるでその答えのように、「愛をもっと」は歌い始める。


もし この先 君を1人にさせてしまっても

僕の心が どこか消えてしまうわけじゃないよ


もし この先 君が大事なものを見失っても、

そこにまだある 僕の愛に気づいてほしい


愛を与える者は、祈る者でもある。与えたいものを「君が」受け取れる未来が来るのを、「僕」は祈る。 どんなに遠く離れて行っても、「この世界のどこまででも この愛が届くように」と。


なぜ、そこまで木は、与えることを選び、愛することを選ぶのか。

その理由を、山本加津彦さんはこうつづる。


「この世界に生まれてきて 良かったねと 言えるように」


生きていれば、間違った道を選ぶ日も、悲しい日も、辛い日も、大事なものを見失う日もある。だけど、僕が君を愛するのは、君に、生まれてきて良かったと言ってほしいからなんだ・・・


それは力強い祈りの姿。


生まれてきて良かったと感じてほしくて、歌は何度も願うように続ける、「愛をもっと 愛をもっと」。


最後には、切り株になってしまった木と、老いて疲れ切ってしまった少年。

ああ、だけど、彼らは祈りの中で生かされているのかもしれないな、と思う。

「この世界に生まれてきて 良かったね」と感じられるように、という願いの中に。

だから、ちょっぴり切ないけど、やっぱりあれはハッピーエンドなんだろうね。



〇最後に


実際には、日本のアルバムにおいて、どこまで本人達がコンセプトの段階からかかわって、意見を出しているのかは分かりません。


TREEというアルバムタイトルに関しては、やや唐突感があったから、ananでチャンミンが話したことも、後付けなのかもしれない。


だけど、とことんその言葉にこだわって考えるなら、こんな風にシェル・シルヴァスタインの世界と、東方神起の『TREE』の世界観を重ね合わせることができるよ、というくらいの気持ちで、書きました。


韓国語歌詞は素敵だけど、意味が分からない私には、「音」でしかない。

だけど日本語の歌では、彼らの声は、単なる「音」だけではなく、意味と結びついた大切な「ことば」になる。


歌詞は年々軽く扱われていくけれど、時にはまっすぐにこだわりたい。


だって10年後も、20年後も、彼らの日本語を愛していきたいから。


歌詞は、その人の内面のようなもの。


だとしたら、私たちは歌の言葉を通して、彼らの心を感じたいと願っているのかもしれない、ね^^


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