現在「黄金を抱いて翔べ」非公式サイト化しています、普段は単なる妄想系トンペンブログ管理人まりこです。
皆様、ごきげんよう。
これまでに書いた黄金を抱いて翔べ関連の記事一覧。
1 高村薫 「黄金を抱いて翔べ」考察 (原作のみを論じた、彼らが”黄金”に見出している意味とは何か、をテーマにした文。)
2 原作ファンでトンペンが観た「黄金を抱いて翔べ」映画と原作徹底比較①
(北川の奥さんが浮気をしていることや、映画だけのラストシーンについて、北川を中心に、映画と原作を比較しながら考察)
3 原作ファンでトンペンが観た「黄金を抱いて翔べ」映画と原作徹底比較②
(映画を観ただけではわかりにくい、人間関係を整理しながら、ストーリーを考察)
4 原作ファンでトンペンが観た「黄金を抱いて翔べ」映画と原作徹底比較③
(なぜ、北川の妻は、浮気をしている必要があったのか?という疑問から、作品における、<女性>の排除・否定の根本にあるものを考察)
さて、11月3日の初公開からもうすぐ一週間。多くのトンペンさんが「黄金~」を観に行かれている中で、「原作」を読んでからいく派と、「あえて原作を読んでいかない派」に別れるようですが、
原作を読んでから行く人が、映画の出来におおむね高評価なのは、映画が基本的に原作の世界観をそのままひきついでいる証拠ですね!
とはいえ、原作を読まずに真っ白な状態で見に行ったトンペンの多くが、チャンミンのかっこよさだけではなく、チャンミンの演じたモモという役柄に魅力を感じて、原作を読んでみようという流れになっているのには、原作の持つ底力を感じます。
そう、この作品が世に出てから22年たっていることなど、みじんも感じさせない吸引力。
それは、どこから来るのかと言えば、この作品が、学生運動沈静後の、無感動で白けた若者達、崩れたベルリンの壁、崩れ始める共産主義の暗闇といった、時代背景を色濃くただよわせながらも、いつの世も普遍的な人の孤独について書かれているからなんじゃないかな~~と私は思います。
誰も踏み入れることのできない孤独。心の中の、うかつに触れれば、自分の指にさえ反応して、どくどくと血が溢れだしてきそうな、生々しい傷。
映画は幸田(妻夫木聡)の、
「・・・人間のいない土地を探していた。そういう土地が世界にはまだ残っているはずだし、そこで自分も人間をやめる日を迎えるのだと決めていた。」(P18L4)
という強烈なモノローグで始まり、幸田というキャラクターの、乾ききった感情と、孤独を観客に強く訴えかける所から始まります。
原作においても、冒頭で語られる「人間のいない土地」という、何とも衝撃的なこの言葉は、やがて、ラストで北川の、
「ところで、お前はどこへ行きたい?アフリカか?シベリアか?・・・いや。これは俺の想像だが、お前はもう、人間のいる土地でも何でもいいのだろう。きっとそうだと思う。」(P350L15)
という言葉に収れんされていきます。
≪人間のいない土地≫を目指していたはずの幸田の”旅”が、やがて、≪人間のいる土地≫へとかえっていくのは何故なのか。
今回はそれを、モモと幸田の結びつきを中心に見ていくことで、考えてみたいと思います。
1 ”鬼が島”に住むモモ太郎
モモ(チャンミン)は、映画においても原作においても、最初から「追われている男」として登場し、名前を失った人間として姿を現します。
チョ・リョファン、チヨン・ユンセン・・・・モモを表す名前は既に冒頭から、実体を失った記号にすぎず、どれも本当の”名前”ではありません。
どこからか、川の流れとともにやってきた不思議な人間、それが彼であり、幸田(妻夫木)が桃太郎をもじってモモと呼ぶ由来ですが、この、どこかマンガチックで、非現実めいた”モモ”という呼び名こそは、実にモモの立場を表した、絶妙なネーミングだと言えるでしょう。
なにしろ、モモこそは、まさに幸田が行きたがっている≪人間のいない土地≫に放り込まれた、哀れな”桃太郎”であり、帰るべき故郷を失い、ただ鬼が島の中を逃げ回る、ちっぽけな、犠牲者だからです。
モモが幸田を、自分を売ろうとしてる者ではないかと尾行し、幸田がモモの正体に薄々気づきながら、やがて惹かれあっていくのは、
それがどこにあるかわからないまま、誰にも言えない罪を抱え、≪人間のいない土地≫を目指し続ける幸田と、
既にある意味≪人間のいない土地≫の中に放り込まれているモモという、
奇妙な一致が大きかったからではないかと思います。
映画では、残念な事にモモと神の関係が原作ほど、丁寧に描かれることがなく、幸田とモモが惹かれあっていく理由は、ぼんやりと話の流れの中で消化されてしまいがちです。
けれど、幸田がモモに惹かれ、、モモが幸田に惹かれる最大の理由は、それぞれが孤独を抱えながら、一方はその孤独の原因こそ”神”であるのに対し、一方は孤独こそが”神”を求める理由にあるという、微妙な違いにあるのではないかと思います。
似た者同士でありながら、彼らが異なっていることが、一番よく分かるのは、モモが兄を殺した自分の罪を幸田に告白し、殺したピストルまで渡した時のエピソードです。
人殺しを、仲間に加えるわけにはいかない。
そう決めた後、幸田は改めて自分の気持ちをいぶかった。
今出したのは、真の結論か。本当に、モモを諦められるか。結局≪イエス≫しかなかったが、柄にもなく気分が重かった。
手の中のベレッタも、耐え難い重さだった。モモの思いの重さが、この一丁のピストルにそっくりそのまま流れ込み、さらに、それを手にした自分の中に、流れ込んだかのようだった。 (P85l13)傍線・引用者
モモが人を殺したと知っても、平然としている北川(浅田忠信)とは対照的に、まるで自分が人殺しをしたかのように陰鬱な気持ちに陥る幸田。
黄金強奪という非合法な行為に平気で加担する幸田が、なぜ「人殺し」には激しく拒否反応を示すのかといえば、それが彼の中の”神”のタブーを刺激する行為だからでしょう。
人間が作った法というルールは無視できても、神の掟を無視することができない幸田。
それは、彼が生まれた時から重くのしかかる罪の記憶ーー神父である父(ジィちゃん)が神を裏切り、女を選んだからこそ自分が生まれたという、ぬぐいがたい”罪”、
神の家である教会を焼き、その罪を無実の父であり、神に仕える神父になすりつけたという”罪”を、否が応でも思い出させ、自分こそ神に呪われたもっとも忌まわしい存在なのではないか?という恐怖を呼び覚ますからです。
そう考えると、映画の冒頭で、何の抑揚もなく語られる「・・・・≪人間のいない土地≫を探していた」という幸田の言葉は、想像しうる中で最も壮絶な孤独と、もはや孤独にうんで疲れ切った人間の、これ以上ない絶望の声のように聞こえてきます。
気高いもの、美しいもの、万能で力強く、人類が描きうる最高のすべてを兼ね備えた存在から、自分は永遠に排除されている、という恐怖。
深い闇夜の中から響いていくる、「・・・そこで人間をやめる日を迎えるのだと決めていた」という、静かな、悲しい決意。
その場面の中で点滅しながら現れる「黄金を抱いて翔べ」というタイトルは、その瞬間のあまりに哀れな幸田にささげられた、誰かの小さな祈りのように見えます。
・・・神に見放されているという絶望から、希望(黄金)を手にして、自分を縛る過去から自由になれ!
今いる暗い世界から、決して失われない明るいものを手にして、飛びたて!
そして、その祈りを幸田に実現させてくれる人物こそ、
名前を失い、自分を殺そうとする”鬼”達に追われて、もはや最期の日を待つほかはないモモ、
きびだんごと引き換えに、人ではないけれど優しい者に囲まれ、美しい金銀財宝を運んでくるはずの、モモ太郎の名前で呼ばれる、名もなきモモ、
幸田によく似た、それでいて幸田とは違う、モモという人物なのではないかと思います。
2 モモの”キリスト”になる幸田、
幸田の”キリスト”になるモモ
モモが、幸田の抱える闇にそれとなく気づき、けっして自分は神に許されないと絶望している幸田の苦しみを、分かち合おうとする場面が、原作には丁寧に描かれています。
映画では割愛されていますが、兄殺しを告白された幸田は、そのモモの罪を受け止め、苦しみます。
いっときは、モモとは手を切ろうと思うのですが、黄金強奪の為にモモがどうしても必要だという北川の判断もあって、できない。
そうこうしている内に、結局は、モモの身を守るため、モモの兄殺しの現場を目撃した「国島」という男を、幸田はモモの代わりに殺してしまいます。
その為に、更に自分自身がどうしようもなく罪にまみれていく感覚に、いらだちながら。
「モモさん。残念ながら、あんたは当分生きているだろうよ。国島は、俺と北川が始末した。俺と北川が、あいつの口を封じた。聞こえたか?」
返事はなかった。モモは頭を落とし、膝を抱えてうずくまったまま動かなかった。気がつくと、かたわらで肉体の細かな振動が起こっていた。
「幸田さん。あんたには、すまないことをした・・・・・・。俺は、誰かに知ってもらいたかったんだ、兄を殺したことを、誰かに知らせたかったんだ。教会に行って告白したかったが、それも出来なかったから、誰かを探してた・・・・・。あんたは、黙って聞いてくれた。ピストルも見せたのに、あんたは何も言わなかった。おかげで、俺は随分気が楽になった。代わりに、あんたが苦しむことになったが・・・・」
「俺はあんたのキリスト代わりか。・・・・・・言っておくが、俺は、国島を殺したかったから、殺したんだ。自分のために殺したんだ。」
幸田はそれだけ吐き捨てて、立ち上がった。モモも立ち上がった。 (P165L4 傍線引用者)
自分のために殺した、とうそぶきつつも、モモの告白が、自分をキリストに見立てて救いを求めていたものであったことを見抜く幸田の背を、なで続けるモモ。
そして祈り続けるモモ。
何も言わなくても、自分の告白を、人々を許すために代わりに罪を背負い、十字架にのぼったキリストのように、幸田が受け止めたことを察したモモは、初めて幸田の心の中に直接語りかけるように、優しくこう言います。
・・・幸田さん。北川さんから聞いた。あんたが聖書を持っているって。
あんたのことは、ほとんど何も知らない。でも、いつか、あんたとは神の話をしたいと思う。あんたとは、心の話をしたいと思う・・・・。 (P164L1)
それは、モモの代わりに罪悪感を引き受けてくれた幸田に対する、不器用で、でも精一杯の、モモの心の言葉です。
長年友人関係にあっても、神を信じない北川には見えず、モモにだけは見えるもの。
モモが幸田に兄殺しを告白して、「だいぶ気が楽」になるようには、容易に楽になることができない幸田に、この時モモは、直観的に、自分とは違う苦しみを抱えていることに、気づくのでしょう。
モモはその予感を幸田に問いただす代わりに、神の話をしようという言葉で、幸田の”キリスト”になる決意を固めたように見えます。
幸田が、彼の代わりに人殺しの罪を背負ってくれたように。幸田が、彼の”キリスト”となってくれたように。
キリストーーそれは、ナザレの大工の子として生まれたイエスを、神の子として信じ、人々の代わりに罪を背負って死んだ、救い主として、信じる言葉です。
お互いに、お互いの”キリスト”となろうとする幸田とモモ・・・そしてそれは、やがて、モモの最後へと続くあの教会の場面への大きな伏線となっていきます。
3 この世の果ての、
最も神に近い場所
モモと幸田の結びつきは、聖書や神を持ち出さなくても、伝わってくるものがあるし、映画で薄められてしまうのは、多くの日本人にとって、”神”も宗教も、どこか遠いからでしょう。
12月になればツリーを飾り、1月にはしめ縄を飾る、そういったものが普段いっしょくたに押入れの中にしまいこまれているように、”神”は日本人にとっては普段目につかない場所にある。
原作と映画の、一番大きな違い は、原作者・高村薫にとって、宗教や”神”の問題は、そんな風に押入れの中にしまっておける存在ではなく、作品を通して彼女が問いたい根源的な問題だったのに比べ、
映画監督・井筒和幸にとっては、深入りしたくない部分だったのではないかという部分です。
これはどちらが優れている、劣っているという問題ではなく、価値観の違いであり、むしろ映画の観客になる多くの日本人にとっては、井筒監督の姿勢の方がなじみやすいでしょう。
逆に、原作が、普遍的な人の孤独を書きながらも、どこかとっつきにくさを感じさせ、”難しい”と思わせてしまうとしたら、多くの日本人読者にとってなじみのない、聖書の世界や、”神”の問題が、そこに色濃く反映されているからだと思います。
特にモモと幸田の関係は、”神”の問題抜きに語ることのできないものだと思いますが、映画では表面的に描くだけに終わっている所にも、井筒監督の、この問題に対する用心深さを感じさせます。
さて、原作では、モモの言葉と向き合い、やはりモモを捨てることはできない、という気持ちを固めるまで、モモに反発したり、春樹と寝てみたり(笑)する幸田ですが、
モモを北朝鮮に売ろうとする山岸、モモの情報を末永にタレこむジィちゃんの存在が明らかになるにつれ、自分にとってモモがかけがえのない存在であることを自覚していきます。
それが一番わかるのが、初めて幸田がモモに、教会に火をつけた過去を告白する場面です。
幸田はモモに、教会が燃えたという話をした。それから、火をつけたのは自分だ、と言った。(略)
五歳の自分の、正確な動機も理由も説明できなかったが、ともかく、火をつけたのは自分だと、幸田は認めた。そう認めたのは初めてだった。
それから、神父が放火のぬれぎぬを着せられて、行方不明になったという話もした。神父が自分の父親だという話はしなかった。
「幸田さん、あそこへ行ってみようか・・・・・・」
モモは、フェンスの向こうの尖塔を指した。幸田は首を横に振った。あそこは遠い。絶対的に遠い。過去でも現在でもない、彼岸のように遠い、という気がした。
「・・・・・いつか、行こう」
モモは静かに、だが、しっかりとささやいた。「いつか、行こう・・・・・・・」
(P270L15 傍線引用者)
映画でも描かれる、闇の中にたたずむ、フェンスの向こうの教会。「いつか、行こう・・・・・・」と語りかけるモモ(チャンミン)の声は優しく、「絶対的に遠い」と感じている幸田の背をそっと押してくれるかのようです。
幸田にとって、全ての罪の始まりとなった教会。幼い時から、正式に入ることを許されず、こっそり忍び込むしかなかった場所。
そして今、闇の中に、凛とした尖塔をそびえたたせ、建っている教会。
記憶の中の教会を、原作では「完璧に整った世界の形と色と光を持っていた」(P270L4)と幸田は語ります。
実はこの教会こそ、幸田をずっととらえてきた≪人間のいない土地≫への入り口なのではないか。
それを求めながら、見つけることができずにいたのは、既に見つけているのに、気づきたくなかっただけだからではないのか?
≪人間のいない土地≫にいる者。それこそ神であり、幸田にとって神はずっと恐ろしい存在だったからこそ、いつか罰される日がくると怯え、行くことができないと、その周りをぐるぐるとさまよってきたのではないか?
ただささやかなフェンスに隔てられただけの、≪向こう側≫にある教会を「絶対的に遠い」と感じる幸田に、「行こう」と語りかけるモモは、大丈夫だ、と励ましているように思えます。
大丈夫、いつか行ける。そこは決して行くことのできない場所ではなく、幸田が想像するような、恐ろしい罰が与えられる場所でもない。
そこは許しと、救いが待っている場所なのだ、と。
そこは決してたどりつくことのできない、この世の果てのような遠い場所にあるのではなく、誰もが行くことのできる、多くの人が生活する町の中にあって、行こうと思えば必ず行ける、だから「いつか行こう・・・」と。
そして運命のように同じ場所を撃たれた彼らは、瀕死の重傷を負いながら教会へ向かいます。
映画では、モモが日本で食べてみたかったもの、という特別な意味をつけられた、鯖寿司をたずさえて。
十字架の前で、ぐったりとして力のないモモの口に寿司を運んでやり、自らも口に押し込んで、教会で寿司を食べる2人。
映画のこの場面を見た時、ああ、これはミサの儀式なのかもしれない、という思いがわきました。カトリックの日曜日の祈りのミサでは、死にゆくイエスが、その前日の最後の晩に、自分の体としてパンを弟子たちに分け与えたことにちなみ、神父が信者に聖体としてのパンを配ります。
パンを食べることで、自分もキリストにならって生きる、神に許され、清められた者として生きるという意味を持つのですが、パンなき彼らの、それでも聖なる食べ物として、彼らはお互いがお互いのキリストとなって、食べ物を分け与え、清め合っている。許しを与えあっている。
そういう意味がこめられているように見えました。
結果としてモモは死に、幸田は辛うじて生き残ります。けれど、幸田がその事実を静かに受け止め、傷つきながらも、黄金を奪回しに向かうのは、死んだ者はモモであってモモではなく、自分の身代わりとして死んだキリストだ、という思いがあるからだ思います。
すぐに立ち去らなければならなかった。ここは、自分のいるべき場所ではなかった。尊い死者が神の国に迎えられる場所に、なぜ自分のような者がいるのか、という気がした。幸田は急いで通路へ出た。何者かに背を押されるように表へ出、扉を閉めた。
(P299L18 傍線引用者)
この時、幸田の背を押す者は、モモか、それとも神か。どちらにしても、幸田は、その手に追い出されるようにして教会を出ていくのではなく、押してもらうようにして、外へ出ていくのだという所が重要だと思います。
幸田にはまだやらなければならないことがあり、行かなければならない場所が残されているから。
天気は快晴。師走の大阪を、世紀の大泥棒が駆ける日だった。 (P300L8)
それは、幸田がモモと共に黄金を手に入れる日。死んだモモが、生きている幸田を通して、本当の桃太郎のように、美しいもの、豊かなものを手に入れる日です。
4 もう一つの≪人間のいない土地≫
いっさいの感情がすりへってしまい、なんの抑揚もなくなってしまったかのような声で、映画の冒頭「・・・≪人間のいない土地≫を探していた」と語った幸田は、黄金を奪うことに成功し、逃げ出す場面において、ふと自由を感じます。
これまで、同じようにしてビルの屋根から逃げたことは何度かあったが、自由の気分を味わったのは初めてだった。自由であり、少し孤独だった。≪人間のいない土地≫はもう、どうでもよかった。人間のいる土地で、自由と感じるのなら。
(P347L14)
映画では、映像だけでセリフがないけれど、トラックの荷台に寝かされた幸田の表情は、どこか解放されたように穏やかで、薄く微笑んでいるようにさえ見えました。
彼を解放した一番大きなものは、モモとの出会いと、モモと過ごした教会の時間にあることは疑いようがありませんが、彼が長年、そこで人間をやめる日が来る、と恐れていた≪人間のいない土地≫から自由になったのは、もう一つ、彼がイメージしてきた、恐ろしい裁きを実行した人物がいたからのように思えます。
その人物とは、もちろん、幸田の父であるジィちゃんです。
映画では西田敏行が演じるこの人物こそは、聖なる者から裏切り者へ、闘う者から偽る者へと変貌する、最も罪悪に汚れた、おぞましい人物として作品の闇を一身に背負っています。
しかし同時に、彼こそは、幼い日の幸田の罪を肩代わりしてくれた人物でもあり、幸田は、現実のジィちゃんを醜悪に感じながらも、”神父”は「俺たちのような下種ではなかった」と、清らかなイメージを抱いています。
そう、放火の罪を代わりに背負ってくれた神父もまた、幼い日の幸田の、”キリスト”なのだと思います。
そして、聖書に出てくる裏切者のユダの末期そのままに、全てが終わって人けのない場所でひっそりと首を吊り、「人間をやめる日」を迎えたジィちゃん。
それもまた、長年幸田を縛っていた、≪人間のいない土地≫で≪人間をやめる日≫を迎えるという予感の、身代わりのようなものだったかもしれません。
本当に許されず、救われることのないまま、≪人間をやめる≫のは、お前ではなく私だよ、と彼は息子に言いたかったのかもしれない・・・・。
既に前記事②でも書いたように、このジィちゃんの死と、聖書にはさまれた写真から、全てを理解した時の、役者・妻夫木聡の表情は、壮絶な悲しみに満ちているように見えました。
全ての発端。全ての原因。全ての罪の始まり。自分から全てを奪っていった男。
けれども、その男こそ、彼の罪を背負った聖なるキリストであり、神の裁きを受ける、哀れな裏切者ユダであり・・・・
感情がないかのように無表情で、ぼそぼそとしか喋ることのない幸田が、初めてしぼりだす、悲しい、言葉にはならない声。
それは映画冒頭の「・・・≪人間のいない土地≫を探していた」と語る幸田の声とは全く対照的な、産声というにはあまりに荒々しく悲しい、初めて出す幸田の生きた声なのかもしれないという気がしました。
モモとジィちゃん、それぞれが幸田に見せた≪人間のいない土地≫の姿。それは全く別の姿ながら、幸田を解放し、≪人間のいる土地≫で生きる力を、与えてくれている。
許しと救いを与えてくれる教会は、≪人間のいる土地≫の中にあり、もはや行こうと思っても行けないこの世の果てではなく、行くことのできる場所にあると知っているから。
裁きを下すのは神ではなく、自分自身なのだと、知っているから。
だったらもう、≪人間のいない土地≫など、どうでもいいではないか。
映画では、荷台に乗せられたまま、穏やかにほほえみ続ける幸田、広い世界を目指して海原を進む船のイメージが、解放された幸田の心を表しているものの、北川によって水葬される場面が、やりきれなさを感じさせます。
初出から文庫に至るまでに改稿されたこの作品において、文庫でのラストは、もう少し希望が持てる終わり方なのですが、それはまたの機会に語るとして、映画のラストは、幸田がモモと黄金を手に入れ、既に翔んだ後なのだと想像してみることにします。
川がやがて海に通じるように、彼らは広く自由な世界に旅立った、そう考えてみるのも、いいのかもしれません。
さーて次回はどうするかな~。映画で大好きな場面を好き勝手語っちゃおうかな~(笑)それともトン妄想かな~~(笑)。
【長文ここまで読んでくださってありがとう】
たくさんの読み応えのあるメッセージやコメント、ありがとうございました^^メッセージの方は、ゆっくりお返事書かせてくださいね。