「宗教は怖い」といいながら…⁉
今年の4月12日の「名字の言」に、ある宗教社会学者の宗教感について書いてある記事を読みました。なるほどと思うところがありましたので、紹介いたします。……宗教社会学者の友人が「日本人は『宗教嫌いの迷信好き』の傾向が強いように思う」と語っていた。困ったときに願掛けをしたり、易や占いを信じたりする人は多いが、”生きる軸”として真剣に宗教を信奉する人は少ない、と ▼ 見回せば「科学的根拠のない怪しい商法や勧誘を信じてしまう人はたくさんいる」とも案じていた。確かに、「特殊な○○」とか「すぐに効果がでる△△」といった、うたい文句を鵜吞みにして、後悔する人が少なからずいる。 ▼1930年7月、インドの詩聖タゴールが、ドイツにある物理学者アインシュタインの私邸を訪れた。タゴールは対談した際、こんな趣旨の話をしている。”信仰で大切なのは現実世界から遊離・超越したそんざいなどではない”と(森本達夫訳『人間の宗教』第三文明社)▼真の宗教とは、現実を離れて、人間を離れた理論ではない。誰もが実践できる、生活に根差した”生きた哲学”であるーー 二人の対談を読み、その思いを強くした▼ 仏典に説かれる「仏」とは、「目覚めた人」の意味を持つ。迷信などに惑わされないことも一つの”目覚め”。そして、現実に幸福の価値を生み出す、仏法哲学と実践に目覚めた人々の連帯こそ、地域・社会の希望となる。(誠)……以上です。確かに、日本人は宗教アレルギーというものがあるかもしれませんね。一昔前には、オウム真理教なる宗教集団が、富士山山麓にあるサティアンという施設に、信者達が共同生活をし、修行と称して、ヨガや空中浮遊などをしている画像を見たことがあります。信者が大集団生活という段階で、現実社会から遊離していると想像されました。その上更に、自分たちの布教活動に合わない相手を”ポアする”として、暴力や薬物等で制裁を加えたり、拉致や殺害したりということもニュースで大きく取り上げられました。また、ある教団では、信者に多額の供養を要請したり、霊験があると称して物品を高額で販売したりというニュースも流れました。大なり小なり、こういうことが、マスコミに報道されると、「宗教は怖い」とか「宗教は嫌い」という声が出ることは当然だと思います。一方で、年末・年始には、自分の宗旨に全く関係なく、普段は行かない神社やお寺に初詣をしたりします。そして、そこでおみくじや絵馬を書いて祈願したりします。「宗教心がないといえばない、あるといえばある」、そんな中途半端な、また、あやふやでいい加減なとことが多々見受けられます。恐らく宗教心の深いキリスト教圏やイスラム教圏の人々から見れば、不思議な存在かもしれませんね。恐らくそこには、「宗教を観る正しい眼」「正邪を判断する客観的な基準」そして「宗教を現実の社会に役立てる手段」という、理論的な思考や実践がないからでしょう。そのために、行き当たりばったりに、占いを信じたり、易判断に頼ったりという短絡的ものに走るのだと思います。しかし、実はそこにこそ大きな「落とし穴」があるのです。
生活に根差した”生きた哲学”
これらのことを踏まえて、”日蓮大聖人の仏法はどうであろうか…⁉”と顧みる必要があります。「人の振り見て我が振り直せ」ですね。批判することも、されることもよくあることです。そこで大事なことは、根拠・論拠を示して、相手を納得させるだけの力があるかです。日蓮大聖人は、「三三蔵祈雨事」という御書の中で、「日蓮、仏法をこころみるに 道理と証文とにはすぎず。また、道理・証文よりも現証にはすぎず」といわれています。この御文の、道理とは理証のことであり、証文とは文証のことです。このように常に「文証・理証・現証」と大事にしました。そしてなにより、この御文に明らかなように、大聖人が、一番重視されたのが現証です。それは、本来、現実の生活の中で苦悩する人間を救うために仏法があるからです。つまり、「真の宗教とは、現実を離れて、人間を離れた理論ではない。誰もが実践できる、生活に根差した”生きた哲学”である」ということを示しています。更に日蓮大聖人は、『唱法華題目抄』に、「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」と明確に言われています。通力とは神通力のことで、超人的な能力をいい、利根とは、勝れた五根(眼根、耳根、鼻根、舌根、身根)を持つことをいいます。占い、加持祈祷、霊媒、坐禅等々で、超人的な能力を得て、予知的なことを語ることです。しかし、超能力的な力を持っているから勝れた人であるとはいえません。ましてや仏法の正邪ということについては、人よりも秀た感覚や能力を持っているかどうかということで判断してはならないとということです。科学的な根拠に基づいて、いつでもどこでもだれでも正しい判断と理論の展開が出来なければ、普遍性があるとは言えません。日蓮仏が、八百年経った今も厳然として現代に活きているのは、この普遍性があるからです。また、「檀越某御返事」には、「御(おん)みやづかい(仕官)を法華経とをぼしめせ、『一切世間の治生産業(ちせいさんぎょう)は皆実相と相違背(あいいはい)せず』とは此れなり。」とあります。これを通解すると「主君に仕えることが法華経の修行であると思いなさい。『あらゆる一般世間の生活を支える営(いとな)み、なりわいは、すべて実相(妙法)と相反することはない』と、経文に説かれているのはこのことである。」ということです。つまり、仕事も、生活も全て仏法であり、現実世界と仏法とは切っても切り離せない存在であることを示しています。逆に言えば、「拝んでいれば何とかなる」という安易な姿勢は認めてはいません。「しっかりと題目を唱えていけば、仕事も生活の良い方に回転していく。でも、それだけではなく、仕事も人一倍しっかりやりなさい」というということをご教示されています。一方で、特権的な高僧に対しては経文を引いて、痛烈な批判をしています。難しいので訳して示します。――人里離れた閑静な場所にいて、粗末な衣をまとい、自分は真実の道を行じていると思って、他の人間を軽んじ賎しめるものがあるであろう。彼らは自己の利益や名利を貪り、執着し、そのために在家の人々に法を説く。(その本質を見破れない)世間の人から尊敬されることは、あたかも六種の自在の通力を持った聖者のようである。しかし(その内面は)悪心を抱き、常に世俗の欲望にとらわれている。そして、自分が人里離れた閑静な場所にいるということをタテにして、(現実社会の中で人々のため、正法を弘めている)私達の悪口を好んで並べたてるのである――と明快に喝破されています。見た目立派な高僧たちは、現実の人間社会から離れて、高邁な説法をしているけど、結局自分では何も生産的な活動もしないで、人から金や権力を求め、それでいて、他人を貶めていく、全く役に立たないどころか害になる存在であると言い切っているのです。実は、この経文は、釈尊の法華経の説法の中にあるものです。つまり、既に二,三千年前にはそのような高僧がいたことになります。そして、将来的にも、そのような見かけは高邁であるが、特に妙法の信心をする人に対して、人を見下し、危害を加えようとする輩が一杯出てくるから、気を付けなさいという、教訓であり予言の経文といえます。
結論:日蓮大聖人は、「どうして南無妙法蓮華経に辿り着いたのか」という原点に簡単に振り返ってみます。それは、「何故、災難・不幸は起こるのか。それ等を防いで幸福になる方法は何か。仏教典や宗派はたくさんある、しかし真実の釈迦の教えは一つのはず。では、それはいったい何なのか?」という疑問にたいしての解決の方法を求めて、諸寺院を尋ね、あらゆる経文を読破し、仏道修行に励みました。つまり、出発点そのものが、「人間の現実社会にある問題解決」にありました。だから、現世からそして民衆から離れた処でするような宗教とは一線を画しています。八万法蔵といわれる一切経を読破しました。その結果、経典には、高低浅深があること知りました。そして、それらの浅深高低を見極めるために、日蓮大聖人は、「経文に明らかならんを用いよ、文証無からんをば捨てよとなり」と、経文上に明確な根拠のある教義を用いるべきであり、いかなる高僧や論師の言葉であろうとも、経典によらない教えを用いてはならないと戒められています。十界論、五重相対、三証、教法流布の先後等の理論や原理から判断して、法華経が最強の教えであり、しかも末法においては、妙法を唱えることが最良の手段であるとの結論を得ましました。そして「現実を離れて、人間を離れた理論ではない、そして、老若男女、貴賤、人種、職種問わず、誰もが実践できる修行」として、御本尊に向かって南無妙法蓮華経の題目を唱える実践法を示しました。そこには、宗教の怪しさも、恐れも、まやかしもありません。非常に合理的で、科学的で、客観性の高いものです。たくさんの経典や論書を調査・分析し、高低浅深を定め、しかも民衆の理解度や受け入れ態勢(機根)なども解析して得た、民衆に合った、民衆の幸福形成のための妙法といえるのです。