椅子と洗面器、シャワーと蛇口が備え付けてあり、それぞれのシャワーの上部には円形の電灯が点いていた。
月の湯という名にちなんでか端から順に上弦の三日月、半月、満月、下弦の半月、三日月、と、一つずつ月の相を模してあった。
上弦の三日月の洗い場では背中の細い女が髪を洗っており、いかにも三日月美人という風情を醸し出していた。
私はといえば湯舟で百八十まで数えようとして七十八を数えたところで気分が悪くなってしまっていた。
目の前がちかちかする中、慎重に歩を進め、とうとう体重計辺りで動けなくなってしまった。
もはやこれまでかどうしよう、と思った時、顔に涼しい風を感じた。
薄目を開けると見知らぬ老婆が手で、しゃがみ込んだ私の頬を扇いでくれていた。
「ここの温泉、熱めなのに湯めぐりなんてあるでしょ、気分悪くなる人よくいるのよねえ」
老婆は言った。
よくいるんですか、と私は思った。
「ここ、誰も使っていないから座りなさい」
コイン式マッサージ機をリクライニングさせ、バスタオルを敷きながら老婆は言った。
かたじけない。声も出ないまま私はそこへ倒れ込んだ。
「昔はね、お客さんも多くて洗い場も七つあったのよ。両端の灯りは新月ってんで黒かったの。暗いから人気がなくてねえその席」
「すみません。大分楽になりましたおかげさまで。どうもありがとうございます」
私がそう礼を言った時ガラス戸が開き先程の三日月美人がよろめき出て膝をついた。
あ、という間もなく後ろから別の老婆が出てきて手で風を送り始めた。そして、
「ここの温泉、熱めなのに湯めぐりなんてあるでしょ、云々……」
さっきと同じ台詞が繰り返される。
最初の老婆は私を団扇で扇ぎながらその光景を静かに見ている。
後からきた老婆は、緩慢ではあるが迷いのない動きで釜型ドライヤーの椅子へバスタオルを敷いた。
ああ、宿主よ湯加減をなんとかせよ湯めぐりを謳うなかれ、そう嘆くと同時に私は、常連であろう老婆達の手際に感心した。
手順は洗練され第一声は一字一句同じ。一人目はリクライニングのきくマッサージ機へ、二人目はリクライニングはないが肘掛けのある釜型ドライヤー椅子へという手配の確かさ。
私達もこの湯あたりを超えて、立派な常連になっていくのだきっと。
しかし、だとしても、三人目が浴室からよろめき出てきた時私は思った。
熱すぎる湯はぬるま湯に慣れきった私達を拒むのだ。
十年経ったらまた来よう。そして湯に当たる若者達を助けよう。
今はまだ、今はまだ早い。
月の湯よどうかなくならずに待っていて。
第三の老婆が畳の小上がりへタオルを広げ、四人目が扉から這い出てくるのを遠目に見ながら、私はそっと目を閉じた。
