仕事1件:9時半から18時。

物流センターの中で商品にシール貼り作業。

自分の作業台があって黙々と作業できたし、かといって周りとのコミュニケーションもハードルなく取っていられた。ほんとうにあたたかな配慮に感謝。

昨日おとといと比べ、身体は使わなかったが、しかし立ちっぱなしと、小物なりに結構重量のある商品だったので作業台の前と後のラインに物を移動するのが大変だった。あと箱から取り出したり。まったくの非体力仕事ではなかった。昨日おとといの疲れもある。勤務場所までの移動も、前2日同様、結構時間がかかった。そういう疲れもあってか、休憩時間はおとといよりとても短く感じた。昨日は休憩なしの仕事。

13時くらいに休憩と、16時くらいに休憩だったが、たしかに午前中のほうが時間がはやく過ぎて、午後はもう作業には慣れて効率化して楽しくしていたが、とにかく細かい手作業と集中力を要して、頭を使う工数が多いみたいで、それで疲れ溜まった。でも自分なりに任された工程でリズム作ってどんどんペースを上げて、それがやりがいがあって楽しかった。


今日の現場も、昨日の現場も、おとといの現場もだが、それはつまりマクロ的にはそれぞれの業界もだが、よく引き合いに出す勤務歴3年ずつの大企業の内勤2つと異なり、作業効率への意識、とにかくはやくこなそうという忙しさ、そしてより効率的に効果的に人を適材適所にする意識が、もうすごく目まぐるしいくらいに爆速で現場を駆け巡っていた。基本、単発で出るバイトは、猫の手も借りたいくらいに人不足すぎるところが求人を出すと思うので、基本的にそうじゃないと終わらないのである。そういうことである。だれひとりサボろうとはせず、勤務意識が高かった。給料や待遇は当然大企業に及ばないかもしれなかったが、実に天に冨を積んでいる方々である。神様が常にその方々をお呼びなのである。

なんか以前子どもが借りてきた絵本で「おーい、灯台」という絵本があって、その大航海時代を支えた知られざる灯台守の暮らしぶりが描かれていてこういう仕事を喜んで楽しくしていたらそりゃあイエス様に救われて天国に入れるでしょうね、と。そう思って感動して自分でも読み直したのを覚えている。夜勤というか365日年がら年中仕事なのである。

如何に大企業の専門職を除いて、主に内勤での、なあなあとして漫然とした働き方、かといって社内営業も横行し、みんな自分の立場保身や、立身出世しか考えずに若手の改善意見など通りっこないそういう閉鎖された風通しの悪い場所。だってそもそも、こんな時代に、より楽で、より待遇の良い仕事を求めること自体がエゴだ。無論、場所や人によるとは思うが、そういう人間の存在確率が高い場所だということである。集まるのである。

わたしは翌週面接のある派遣社員の仕事も、もし採用なっても、今の身体を動かす仕事などをかけもちで、毎日何かしら違う仕事をしていたいなあと思う。職場の人間関係にも業務内容にも飽きるのが早いのだ。それか事務や作業系ならあっという間に効率化してしまって、自分の仕事がなくなって暇になるなど。暇が苦痛で転職したというのもあったし。他の人の仕事を取るわけにはいけない。いつも、なんでも、どんな仕事だって争奪戦なのである。働きたくても働けない人など、無論色んな理由で、この世界にゴマンといるのだ。

誰だって、わたしやることやっています、の立場で生きたいのである。わたしは今まで信仰生活に入るまでも、他の仕事を取ることなどしなかった。そうすると自分の仕事がなくなった。しかし今は、天国なので、誰かが気付いて、あるいは親切に仕事をくださる。永遠に、イエス様の救いに父なる神様との和解に感謝。


子育て状況:20時ごろ、帰宅後、まず玄関の施錠なし、やったことといえばシャワーとわたしに丸付けしてもらえる自主練習くらいで、あとはゲーム三昧だったようだ。さすがに雷を落とした。懇切丁寧にあれこれ用意した寂しかろうと思って用意したごちそうの夜ごはんも、手つかず。もう腹減ってないなら食うなで、雷のあと強制的に寝かせて、仕事の疲れを取るお風呂場に持ち込んでわたしが全部食べた。今日だってほとんど何も食べていなかったのである。


もっと罪深いのはわたしが帰宅時に今何してる?と聞くと開口一番、15分のゲームしてた、つまり約束の15分×2の15分の最後のほうだった、と言ったことである。実際に終わっていることを計算しても2時間半はゆうにゲームをしていることになる。嘘をつくなとは常々言っている。いい加減に親を舐め過ぎだろう。ちなみにわたしは話の通じる人間なので、もし仮にホワイトボードに書いてある、やるべきことを全部やったうえで、別に腹も空かないので、とダラダラゲームしているんなら、別に何も言わない。そうも言った。このママ何に怒る?嘘。正直に言わないと怒るんだよ神様はぜんぶご存知なんだよとブチギレた。もはやわざと。普通にやさしく言っても、聞き入れないから徐々に言い方がキツくなってきたのである。子育ての歴史。現在を作っているのは連綿とした地続きの過去だ。


対策:ゲームを取り上げる。


基本的に地上の修行者に娯楽など無い。わたしもずっと娯楽など無かった。社会的責任感でなんとなく様子をみてみたら、副産物的に面白かったそういうのはいくつかあるが。障がい発症当初は、動画も文字もだめで、まあ食べることくらいしか娯楽がなくお金もないのでやや回復した時期には、よく大食いASMRをみて、というか、聞いていた。薄味のフィーリングの音楽とか。それくらい。絵本があれば十分だろう。まだ中学受験戦争に参戦していない、小学低学年時代に、暇な時には、ドリル類を宿題で言われた回数の5倍自分でやっていたりした。ゲームも与えられなかったし、幼児向け絵本と大人の本以外なかったので、ちょうどいい塩梅の本がなく、大人の本ーー難しく読みきれないものも多かったが細かい活字を読んで分からない漢字の多いなか、一生懸命内容を理解しようと努めていた。辞書も読んでいた。親が日本語学習者だったので、ことわざ辞典とか、日本語の学習者向けの本。あれはわたしの言語能力の早熟に寄与して、大人になるまでの不遜さにも寄与した。小賢しい言葉遣いで、舐めやがってとよく言われる子どもだった。冷静に論理的に議論あるいは説明あるいは弁解をしているだけというのに。


あとは、


もう今日から、約束を守るありがとうごめんなさいを言うママは居なくなります。さようなら。いつまでも感謝せず尊敬もしない舐め腐るだけのお前みたいなやつに、物理的に上下の立場で、弱肉強食ならこっちが強になるという地上の常識のなかで、このイエス様も知っていて神様も知っている素晴らしいままが、誰がいつまでものらくらと、頭の良さを自分の楽しみに使うことしか考えないような、そんなおまえに下手にでて接しようと思う?そう突き放した。ハイおまえは今から地獄にログインします。この世にも素晴らしい有り得ない事をしてきた、お友だちにもいつも人気で、子どももずいぶん嫉妬していたが、これから仕事もして社会でも大歓迎のこのままが、取り上げられますと。神様に祈って悔い改めろと。

そしたら叱責のなかで一番嫌だーと泣いていた。まあ敏感な子なのでわかるのだろう、保育園や幼稚園の先生との対比や、友達のお母さんなどの話を聞いて。

かつての私のようにならないように、やっぱり寝る前にはメモのサポートをしたりで併走したが。

3歳にピカチュウのぬいぐるみと、あとは継母の気まぐれで高校生のころなんか自己満足のぬいぐるみをもらった。あとは成績表を突きつけてウォークマンを買ってもらった中学生。ケーキはだいたいあったがプレゼントなんて。そもそも途上国などでは誕生日など知らない人間もザラなのである。実に贅沢な文化だと思う。


なんでもかんでも叱らない子育ては、どういう大人を作ったか?言われて当然のことを言われてすぐ落ち込んで凹んで、改善する気も無くして、もう嫌だとふてくされて何もやる気が出なくなるそういう人間の完成だ。そんな人間が量産された社会はどうなる?仕事はみんな一生懸命自分の生活や社会のみんなのために文句を言わずに身を粉にして働く古き良き日本の生き残りや、外国人のものである。ちなみに、こういう状況としては、アメリカが日本のやや先を行っている。

一体社会のどこの誰が、おまえが良くなるための言葉をくれるにあたって、わざわざ精神的に下手に出て、おまえの機嫌を終始おだてるように、なんでも与えたり、連れて行ったり、何も否定せず終始やさしく穏やかに、そういう言動や行動をとれるというのだろう。


子どもが生まれて自立した大人になるまで、一度も腹が立ったり、怒ったりしたことのない経験者なら、わたしに石を投げて踏みつけにする権利があるだろうとは、イエス様も姦淫をした女を取り囲んで裁こうとする人らに向けて、一度も罪を犯したことの無い人間だけが、この人に石を投げろ、とおっしゃっていることだ。


どうせすぐに忘れるなら、すぐに脳みそを変えられないんだから、メモに書けと言って、成長したいのか成長したくないのかを問い、今日も小学校でやり漏らしてきた事を、紙に書かせて明日絶対に目につく場所におく、そうやって自分の能力を補うための工夫の仕方の知恵を与えた。


所感など:EQもIQもだが、とにかく何かしら能力の高い人間、頭の良い人間や体力でもいいが、それを


みんなのために使わないなら


神様から「役立たず」 と言われて


懲らしめられる。当然である。他人の幸せのためにそれらを神様から預かったのである。人よりも頭のよさに恵まれるなら、それを自分を守ったりするため、利己心的に使おうと思うものなら、尚の事裁きは苛烈になる。しかしいつも周りの改善のため、気を配ったり、効率化を意識したり、それは社会を助けるように使わないと、そもそも居場所が無くなって当然の神様の御心だったということだ。多く与えられたものには多くの務めがある、というそれである。妬みと嫉妬も免れず、天国にログインできない。


いままでの、思春期ごろくらいからの、親の自己中心に生きてなんぼじゃみたいなイエス様の神様の敵そのものの思考に支配されて10年ほどはわたしもひどいものだった。悔い改めである。中学2年生の頃には1日仕事に入院の弟への面会に忙しい父を送り出して、パソコンで延々とオンラインゲームをやっていたら、予定より早く帰宅した父に烈火の如く怒られたのをよく覚えている。しかしああやって追い詰められて勉強を努力しなければ得られない条件の良い仕事というのはたしかにあった。たしかに。

しかし親の心を無視した対応、一方的なコミュニケーションにより心は閉ざされて父の洗脳、父が世界一素晴らしい人間、世界一尊敬する人間、というマインドコントロールが始まった。

しかしわたしは生まれつきは善良であり、

もともと改善や問題解決や努力が好きな人間だった。いつも何かもっと良くならないだろうかと、常に頭を働かせていたのだ。人間関係においても。そうして身近には家庭でも多くの提言や示唆をしてきたが、目下の意見は基本潰される環境で受験成功までは発言権もなく、受験成功したらわたしはさらなる受験勉強に本腰を入れるまで、かなり怠けてしまった。親に言われるから努力していたのである。動機がそもそも罪だったのである。しかし、本当は強制されずとも、求められれば必要とされれば、難無くそれができる側の人間だったのである。

わたしが先程書いたのは、喜んで社会の周囲の隣人のために惜しみなくそれを使うことである。動機が愛なのである。動機が自己保身のためや、名誉欲なら、それらは表層は同じ行動や言動になっても、神様に裁かれるものになる。神様のダブルスタンダードとは、そういうことである。

わたし、今のいろいろな忙しい職場を一番下っ端の立場で働いて巡る生活、毎日ヘトヘトでも結構好きだ。一緒の立場で働いている人もたくさん。その様子も。いつもどの現場でも、一番下っ端でいたいと思う。そして365日休みなく働こうと思う。たとえ余命が半年で、このまま無理するとほんとうに死ぬと言われても、身を粉にして働いてそれはほんとうに楽しく充実していて、同じ職場の戦場の隣人と愛も交わせて、天国で、そのままばったりと野垂れ死にすることになっても、

それが、わたしの本望だと思う。


みんなで同じ目的に向かって、別に名前などお互いに知らずとも、一生懸命に回すそんな仕事現場が私は好きだ。そういう仕事を生涯やっていようと思う。


じゃあ今の生活保護で、何もせずゆっくりして子どもともゆるし続けて向き合って、子どもは甘やかされ放題で世の中のスピードについていける人間に育たず、わたしも数年で存在価値や存在意義があいまいなまま死ぬくらいなら、半年間命を燃やして一生懸命働いて社会の役に立って生きるということを示し続けて、それでわたしが死んだら子どももしっかりせざるを得ないと思う。今日のことだって、そう思う。


明日は午後から夜にかけての仕事。

久々に一緒の朝を過ごす。友達と待ち合わせしているくせに自分のしたいことをギリギリまでやって、結局友達は遅刻するので先に学校に着いている、それを2日間やらかしたらしい。もう次は無いぞと言っている。誰がそんなやつと一生一緒に行こうと言い続けてくれる?基本的なことだ。わたしにはそういう常識を教えてくれる人がなかったが、今は3年間の信仰生活でひとつずつ聖霊様が教えてくださっている。


そうそう、気が付いたのは、だいたい忙しい現場の一番簡単な業務を請け負うのだが、誰にでもできる仕事をしているのに、全く抵抗が無くなったのである。私だけにできることを、追い求めなくなった。むしろ、みんなと同じ事をしている、安心感。普通になれている、安心感。

私を私として必要として、イエス様によって、愛してくださっている神様のおかげである。