申請は、今日の朝、以前コールセンターに依頼して郵送してもらっていた、最高裁判所判決にかかる給付のことを、記入してみようと思ったら、なんと、電子申請があるようだったので調べたら、電子申請をしている自治体だったので、電子申請をした。
ちゃんと喋られないので、ほうぼうで適当な対応をされる。みんな笑顔で好印象、わたしは良い人だなあと思って親切な聞こえの良い言葉に、ありがとうございます!と心から感謝を述べ伝えて会話をおしまいにする。あとから聖霊によって、ちゃんと対応したほうが良かったかなあなんて良心の呵責を聞く。わたしは、蔑ろに、適当に扱われていたんだなと思って傷付く。そういうことだった。その場では気が付かない。でもイエス様の愛ができていることかも知れなかった。イエス様の愛は罪悪感を抱かせるそういう効果があった。罪悪感で人は動く。
それで夜久しぶりに泣き叫んだ。子どもは先に寝てもらって、ひとりでシャワーしてるときに耐えかねて泣き叫んだ。多分聞こえたと思う。でも仕方ないと思う。皿洗いをして洗濯をして、それでもう一度しばらくお部屋で泣き叫んだ。よく分からないけど、父親とのことや、継母とのことを思い出して、泣いた。なんで地上の人間はすぐずるい立ち回りや、正直でない喋り方をするんだろうと思って、いろいろな本音を隠したやり取りや、あるいはそういうこと、今日あったことと照らし合わせて思い出して、泣いた。こっちは良い人だなあと思っていたら、陰口を言われていたり、裏で騙されていたり、そういうことばかりの人生だった。仲良くしているつもりが、馬鹿にされて意地悪に笑われて、それでもわたしは自分がそうならないように努めてきた。
弟をいじめていた幼少期を思い出すと、自分もそういうことがあった。何度教えても、何べん言い聞かせても、同じことを繰り返す子どもに腹いせに酷い言い方をしたくなることもあった。それは罪だと気付いたから、苦しいだけで、別になんともない、ごくふつうの地上のよくある出来事のはずだった。
心がでてきてしまったと思う。傷付いて、踏みにじられてとてもつらい。でもイエス様といっしょに生きている。私を踏みにじったひとで、信仰にゆかりのあるひとは、みんなあとから罪悪感にさいなまれる。そうして信仰へ導かれるんだろう。そうして神様に使われるんだろうな、と思った。まともに喋れないし、まともに頭も使えないことも多い。