後篇 第2 他力往生(たりきおうじょう) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

後篇 第2 他力往生(たりきおうじょう) #jodoshu #開宗850


後篇 第2 他力往生(たりきおうじょう) 十二箇条問答

 

 

およそ生死(しょうじ)をいずる行(ぎょう)、一(ひと)つにあらずといえども、まず極楽(ごくらく)に往生(おうじょう)せんとねがえ。弥陀(みだ)を念(ねん)ぜよという事(こと)、釈迦(しゃか)一代(いちだい)にあまねくすすめ給(たま)えり。そのゆえは、阿弥陀佛(あみだぶつ)、本願(ほんがん)をおこして、わが名号(みょうごう)を念(ねん)ぜんもの、わが浄土(じょうど)にうまれずば正覚(しょうがく)をとらじとちかいて、すでに正覚(しょうがく)をなり給(たま)うゆえに、この名号をとなうるものは、かならず往生(おうじょう)する也(なり)。臨終(りんじゅう)の時(とき)、もろもろの聖衆(しょうじゅ)とともにきたりて、かならず迎接(こうしょう)し給(たま)うゆえに、悪業(あくごう)としてさうるものなく、魔縁(まえん)としてさまたぐる事(こと)なし。男女(なんにょ)貴賤(きせん)をもえらばず、善人(ぜんにん)悪人(あくにん)をもわかたず、至心(ししん)に弥陀(みだ)を念(ねん)ずるに、うまれずという事(こと)なし。たとえば、おもき石(いし)をふねにのせつれば、しずむ事(こと)なく、万里(ばんり)のうみをわたるがごとし。罪業(ざいごう)のおもき事(こと)は石(いし)のごとくなれども、本願(ほんがん)のふねにのりぬれば、生死(しょうじ)のうみにしずむ事(こと)なく、かならず往生(おうじょう)する也(なり)。ゆめゆめ、わが身(み)の罪業(ざいごう)によりて、本願(ほんがん)の不思議(ふしぎ)をうたがわせ給(たま)うべからず。これを他力(たりき)の往生(おうじょう)とは申(もう)す也。