前篇 第10 小消息(こしょうそく) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

前篇 第10 小消息(こしょうそく) #jodoshu #開宗850


前篇 第10 小消息(こしょうそく) 勅伝第21巻

 

 

末代(まつだい)の衆生(しゅじょう)を往生(おうじょう)極楽(ごくらく)の機(き)にあてて見(み)るに、行(ぎょう)すくなしとても疑(うたが)うべからず。一念(いちねん)十念(じゅうねん)に足(た)りぬべし。罪人(ざいにん)なりとても疑(うたが)うべからず。罪根(ざいこん)ふかきをもきらわじと宣(のたま)えり。時(とき)くだれりとても疑(うたが)うべからず。法滅(ほうめつ)以後(いご)の衆生(しゅじょう)、なおもて往生(おうじょう)すべし、況(いわん)や近来(きんらい)をや。我(わ)が身(み)わろしとても疑(うたが)うべからず。自身(じしん)はこれ、煩悩(ぼんのう)具足(ぐそく)せる凡夫(ぼんぶ)也(なり)と宣(のたま)えり。十方(じっぽう)に浄土(じょうど)おおけれど、西方(さいほう)を願(ねが)うは、十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の衆生(しゅじょう)の生(うま)るる故(ゆえ)なり。諸佛(しょぶつ)のなかに弥陀(みだ)に帰(き)したてまつるは、三念(さんねん)五念(ごねん)に至(いた)るまで、みずから来迎(らいこう)し給(たま)う故(ゆえ)なり。諸行(しょぎょう)の中(なか)に念佛(ねんぶつ)を用(もち)うるは、かの佛(ほとけ)の本願(ほんがん)なる故(ゆえ)也(なり)。いま弥陀(みだ)の本願(ほんがん)に乗(じょう)じて往生(おうじょう)しなんに、願(がん)として成(じょう)ぜずと云(い)う事(こと)あるべからず。本願(ほんがん)に乗(じょう)ずる事(こと)は、信心(しんじん)のふかきによるべし。うけがたき人身(にんじん)をうけて、あいがたき本願(ほんがん)にあいて、おこしがたき道心(どうしん)を発(おこ)して、はなれがたき輪廻(りんね)の里(さと)をはなれて、生(うま)れがたき浄土(じょうど)に往生(おうじょう)せん事(こと)、悦(よろこび)の中(なか)の悦(よろこび)なり。罪(つみ)は十悪(じゅうあく)五逆(ごぎゃく)の者(もの)も生(うま)ると信(しん)じて、少罪(しょうざい)をも犯(おか)さじと思(おも)うべし。罪人(ざいにん)なおうまる、況(いわん)や善人(ぜんにん)をや。行(ぎょう)は一念(いちねん)十念(じゅうねん)なおむなしからずと信(しん)じて、無間(むけん)に修(しゅ)すべし。一念(いちねん)なお生(うま)る、況(いわん)や多念(たねん)をや。阿弥陀佛(あみだぶつ)は不取(ふしゅ)正覚(しょうがく)の言(ことば)を成就(じょうじゅ)して、現(げん)に彼(か)の国(くに)にましませば、定(さだ)めて命終(みょうじゅう)の時(とき)は来迎(らいこう)し給(たま)わん。釈尊(しゃくそん)は善(よき)哉(かな)、我(わ)が教(おしえ)に随(したが)いて、生死(しょうじ)を離(はな)ると知見(ちけん)し給(たま)い、六方(ろっぽう)の諸佛(しょぶつ)は悦(よろこ)ばしき哉(かな)、我(わ)が証誠(しょうじょう)を信(しん)じて、不退(ふたい)の浄土(じょうど)に生(うま)ると悦(よろこ)び給(たま)うらんと。天(てん)に仰(あお)ぎ地(ち)に臥(ふ)して悦(よろこ)ぶべし、このたび弥陀(みだ)の本願(ほんがん)にあう事(こと)を。行住坐臥(ぎょうじゅうざが)にも報(ほう)ずべし、かの佛(ほとけ)の恩徳(おんどく)を。頼(たの)みても頼(たの)むべきは、乃至(ないし)十念(じゅうねん)の詞(ことば)。信(しん)じても猶(なお)信(しん)ずべきは、必得(ひっとく)往生(おうじょう)の文(もん)也(なり)。