前篇 第3 聖浄二門(しょうじょうにもん) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

前篇 第3 聖浄二門(しょうじょうにもん) #jodoshu #開宗850


前篇 第3 聖浄二門(しょうじょうにもん) 勅伝第21巻

 

 

或(あ)る人(ひと)、上人(しょうにん)の申(もう)させ給(たま)う御念佛(おねんぶつ)は、念々(ねんねん)ごとに佛(ほとけ)の御心(みこころ)に、かない候(そうろ)うらんなど申(もう)しけるを、いかなればと上人(しょうにん)かえしとわれければ、智者(ちしゃ)にておわしませば、名号(みょうごう)の功徳(くどく)をもくわしくしろしめし、本願(ほんがん)の様(さま)をもあきらかに御心得(おんこころえ)あるゆえにと申(もう)しけるとき、汝(なんじ)本願(ほんがん)を信(しん)ずる事(こと)、まだしかりけり。弥陀如来(みだにょらい)の本願(ほんがん)の名号(みょうごう)は、木(き)こり、草(くさ)かり、菜(な)つみ、水(みず)くむたぐいごときのものの、内下(ないげ)ともにかけて、一文(いちもん)不通(ふつう)なるが、となうれば必(かなら)ずうまると信(しん)じて、真実(しんじつ)にねがいて常(つね)に念佛(ねんぶつ)申(もう)すを最上(さいじょう)の機(き)とす。もし智恵(ちえ)をもちて生死(しょうじ)をはなるべくば、源空(げんくう)いかでかかの聖道門(しょうどうもん)をすてて、この浄土門(じょうどもん)に趣(おもむ)くべきや。聖道門(しょうどうもん)の修行(しゅぎょう)は、智恵(ちえ)をきわめて生死(しょうじ)をはなれ、浄土門(じょうどもん)の修行(しゅぎょう)は、愚痴(ぐち)にかえりて極楽(ごくらく)にうまるとしるべしとぞ仰(おお)せられける。