後篇 第29 一蓮托生(いちれんたくしょう) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

後篇 第29 一蓮托生(いちれんたくしょう) #jodoshu #開宗850


後篇 第29 一蓮托生(いちれんたくしょう) 十六門記

 

 

会者定離(えしゃじょうり)は常(つね)の習(ならい)、今(いま)はじめたるにあらず。何(なん)ぞ深(ふか)く歎(なげ)かんや。宿縁(しゅくえん)空(むな)しからずば同一蓮(どういちれん)に坐(ざ)せん。浄土(じょうど)の再会(さいかい)、甚(はなは)だ近(ちか)きにあり。今(いま)の別(わか)れは暫(しばら)くの悲(かな)しみ、春(はる)の夜(よ)の夢(ゆめ)の如(ごと)し。信謗(しんぼう)ともに縁(えん)として、先(さき)に生(うま)れて後(のち)を導(みちび)かん。引摂縁(いんじょうえん)はこれ浄土(じょうど)の楽(たのしみ)なり。夫(そ)れ現生(げんしょう)すら猶(なお)もて疎(うと)からず。同(どう)名号(みょうごう)を唱(とな)え、同一(どういつ)光明(こうみょう)の中(うち)にありて、同(どう)聖衆(しょうじゅ)の護念(ごねん)を蒙(こうぶ)る、同法(どうほう)尤(もっと)も親(した)し。愚(おろか)に疎(うと)しと思(おぼ)し食(め)すべからず。南無阿弥陀佛(なむあみだぶつ)と唱(とな)え給(たま)えば、住所(じゅうしょ)は隔(へだ)つといえども、源空(げんくう)に親(した)しとす。源空(げんくう)も南無阿弥陀佛と唱(とな)えたてまつるが故(ゆえ)也(なり)。念佛(ねんぶつ)を縡(こと)とせざる人(ひと)は、肩(かた)を並(なら)べ膝(ひざ)を与(く)むといえども、源空(げんくう)に疎(うと)かるべし。三業(さんごう)、皆(みな)異(こと)なるが故(ゆえ)なり。