後篇 第20 行者存念(ぎょうじゃぞんねん) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

後篇 第20 行者存念(ぎょうじゃぞんねん) #jodoshu #開宗850


後篇 第20 行者存念(ぎょうじゃぞんねん) 十二箇条問答

 

 

 

ある時(とき)には世間(せけん)の無常(むじょう)なる事(こと)をおもいて、此(こ)の世(よ)のいくほどなき事(こと)をしれ。ある時(とき)には佛(ほとけ)の本願(ほんがん)をおもいて、必(かなら)ずむかえ給(たま)えと申(もう)せ。ある時(とき)には人身(にんじん)のうけがたきことわりをおもいて、このたびむなしくやまん事(こと)をかなしめ。六道(ろくどう)をめぐるに、人身(にんじん)をうる事(こと)は、梵天(ぼんてん)より糸(いと)をくだして、大海(だいかい)のそこなる針(はり)のあなをとおさんがごとしといえり。ある時(とき)は、あいがたき佛法(ぶっぽう)にあえり。このたび出離(しゅっり)の業(ごう)をうえずば、いつをか期(ご)すべきとおもうべき也(なり)。ひとたび悪道(あくどう)に堕(だ)しぬれば、阿僧祗劫(※あそうぎこう)をふれども、三宝(さんぼう)の御名(みな)をきかず。いかにいわんや、ふかく信(しん)ずる事(こと)をえんや。ある時(とき)には、わが身(み)の宿善(しゅくぜん)をよろこぶべし。かしこきもいやしきも、人(ひと)おおしといえども、佛法(ぶっぽう)を信(しん)じ、浄土(じょうど)をねがうものはまれ也(なり)。信(しん)ずるまでこそかたからめ、そしりにくみて、悪道(あくどう)の因(いん)をのみつくる。しかるにこれを信(しん)じ、これを貴(たっと)びて、佛(ほとけ)をたのみ、往生(おうじょう)を志(こころざ)す。これ偏(ひとえ)に宿善(しゅくぜん)のしからしむる也(なり)。ただ今生(こんじょう)のはげみにあらず。往生(おうじょう)すべき期(とき)のいたれる也(なり)と、たのもしくよろこぶべし。かようの事(こと)を、おりにしたがい、事(こと)によりておもうべき也(なり)。