後篇 第18 深信因果(じんしんいんが) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

後篇 第18 深信因果(じんしんいんが) #jodoshu #開宗850


後篇 第18 深信因果(じんしんいんが) 勅伝第32巻

 

 

十重(じゅうじゅう)をたもちて十念(じゅうねん)をとなえよ。四十八軽(しじゅうはちきょう)をまもりて四十八願(しじゅうはちがん)をたのむは、心(こころ)にふかくこいねがう所(ところ)なり。おおよそいずれの行(ぎょう)をもはらにすとも、心(こころ)に戒行(かいぎょう)をたもちて浮嚢(ふのう)をまもるがごとくにし、身(み)の威儀(いぎ)に油鉢(ゆはつ)をかたぶけずば、行(ぎょう)として成就(じょうじゅ)せずという事(こと)なし。しかるをわれら、或(あるい)は四重(しじゅう)をおかし、或(あるい)は十悪(じゅうあく)を行(ぎょう)ず。かれもおかし、これも行(ぎょう)ず。一人(いちにん)としてまことの戒行(かいぎょう)を具(ぐ)したる者(もの)はなし。諸悪(しょあく)莫作(まくさ)、諸善(しょぜん)奉行(ぶぎょう)は、三世(さんぜ)の諸佛(しょぶつ)の通戒(つうかい)也(なり)。善(ぜん)を修(しゅ)するものは善趣(ぜんしゅ)の報(ほう)を得(え)、悪(あく)を行(ぎょう)ずる者(もの)は悪道(あくどう)の果(か)を感(かん)ずという、この因果(いんが)の道理(どうり)をきけどもきかざるがごとし。はじめていうにあたわず。しかれども、分(ぶん)にしたがいて悪業(あくごう)をとどめよ。縁(えん)にふれて念佛(ねんぶつ)を行(ぎょう)じ、往生(おうじょう)を期(ご)すべし。