後篇 第3 機教相応(ききょうそうおう)  #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

後篇 第3 機教相応(ききょうそうおう)  #jodoshu #開宗850


後篇 第3 機教相応(ききょうそうおう) 勅伝第6巻


 

上人(しょうにん)、播磨(はりま)の信寂房(しんじゃくぼう)におおせられけるは、ここに宣旨(せんじ)の二(ふた)つ侍(はべ)るをとりたがえて、鎮西(ちんぜい)の宣旨(せんじ)を板東(ばんどう)へくだし、板東(ばんどう)の宣旨(せんじ)をば鎮西へくだしたらんには、人(ひと)もちいてんやと宣(のたま)うに、信寂房(しんじゃくぼう)しばらく案(あん)じて、宣旨(せんじ)にても候(そうら)え、とりかえたらんをば、いかがもちい侍(はべ)るべきと申(もう)しければ、御房(ごぼう)は道理(どうり)をしれる人(ひと)かな。やがてさぞ。帝王(ていおう)の宣旨(せんじ)とは釈迦(しゃか)の遺教(ゆいきょう)なり。宣旨(せんじ)二(ふた)つありというは、正(しょう)・像(ぞう)・末(まつ)の三時(さんじ)の教(おしえ)なり。聖道門(しょうどうもん)の修行(しゅぎょう)は、正(しょう)・像(ぞう)の時(とき)の教(おしえ)なるがゆえに、上根上智(じょうこんじょうち)のともがらにあらざれば証(しょう)しがたし。たとえば西国(さいこく)の宣旨(せんじ)のごとし。浄土門(じょうどもん)の修行(しゅぎょう)は、末法(まっぽう)濁乱(じょくらん)の時(とき)の教(おしえ)なるがゆえに、下根下智(げこんげち)のともがらを器(うつわもの)とす。これ奥州(おうしゅう)の宣旨(せんじ)のごとし。しかれば三時相応(さんじそうおう)の宣旨(せんじ)、これをとりたがうまじきなり。大原(おおはら)にして聖道(しょうどう)・浄土(じょうど)の論談(ろんだん)ありしに、法門(ほうもん)は牛角(ごかく)の論(ろん)なりしかども、機根(きこん)くらべには源空(げんくう)かちたりき。聖道門(しょうどうもん)はふかしといえども、時(とき)すぎぬればいまの機(き)にかなわず。浄土門(じょうどもん)はあさきに似(に)たれども、当根(とうこん)にかないやすしといいしとき、末法万年(まっぽうまんねん)、余教悉滅(よきょうしつめつ)、弥陀一教(みだいっきょう)、利物偏増(りもつへんぞう)の道理(どうり)におれて、人(ひと)みな信伏(しんぶく)しきとぞ仰(おお)せられける。