後篇 第1 難易二道(なんいにどう) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

後篇 第1 難易二道(なんいにどう) #jodoshu #開宗850


後篇 第1 難易二道(なんいにどう) 浄土宗略抄


 

浄土門(じょうどもん)というは、この娑婆世界(しゃばせかい)をいといすてて、いそぎて極楽(ごくらく)にうまるる也(なり)。かの国(くに)にうまるる事(こと)は、阿弥陀佛(あみだぶつ)のちかいにて、人(ひと)の善悪(ぜんなく)をえらばず、ただほとけのちかいをたのみ、たのまざるによる也(なり)。このゆえに道綽(どうしゃく)は、浄土(じょうど)の一門(いちもん)のみありて通入(つうにゅう)すべきみちなりとのたまえり。されば、このごろ生死(しょうじ)をはなれんと思(おも)わん人は、証(しょう)しがたき聖道(しょうどう)をすてて、ゆきやすき浄土(じょうど)をねがうべき也(なり)。この聖道(しょうどう)・浄土(じょうど)をば、難行道(なんぎょうどう)・易行道(いぎょうどう)となづけたり。たとえをとりてこれをいうに、難行道(なんぎょうどう)は、けわしきみちを、かちにてゆくがごとし。易行道(いぎょうどう)は、海路(かいろ)をふねにのりてゆくがごとしといえり。あしなえ、目(め)しいたらん人は、かかるみちにはむかうべからず。ただふねにのりてのみ、むかいのきしにはつくなり。しかるにころごろのわれらは、智恵(ちえ)のまなこしい、行法(ぎょうぼう)のあしなえたるともがら也(なり)。聖道難行(しょうどうなんぎょう)のけわしきみちには、惣(そう)じてのぞみをたつべし。ただ弥陀(みだ)の本願(ほんがん)のふねにのりて生死(しょうじ)のうみをわたり、極楽(ごくらく)のきしにつくべき也(なり)。