前篇 第9 安心(あんじん) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

前篇 第9 安心(あんじん) #jodoshu #開宗850


前篇 第9 安心(あんじん) 勅伝第24巻

 

 

念佛(ねんぶつ)の行者(ぎょうじゃ)の存(ぞん)じ候(そうろ)うべき様(よう)は、後世(ごせ)をおそれ、往生(おうじょう)をねがいて念佛(ねんぶつ)すれば、おわる時(とき)かならず来迎(らいこう)せさせ給(たま)うよしを存(ぞん)じて、念佛(ねんぶつ)申(もう)すより外(ほか)の事(こと)候(そうら)わず。三心(さんじん)と申(もう)し候(そうろ)うも、かさねて申(もう)す時(とき)は、ただ一(ひと)つの願心(がんしん)にて候(そうろ)うなり。そのねがう心(こころ)のいつわらず、かざらぬ方(かた)をば、至誠心(しじょうしん)と申(もう)し候(そうろう)。此(こ)の心(こころ)の実(まこと)にて、念佛(ねんぶつ)すれば臨終(りんじゅう)に来迎(らいこう)すという事(こと)を、一念(いちねん)もうたがわぬ方(かた)を、深心(じんしん)とは申(もう)し候(そうろう)。このうえわが身(み)もかの土(ど)へうまれんとおもい、行業(ぎょうごう)をも往生(おうじょう)のためとむくるを、廻向心(えこうしん)とは申(もう)し候(そうろ)うなり。此(こ)の故(ゆえ)に、ねがう心(こころ)いつわらずして、げに往生(おうじょう)せんと思(おも)い候(そうら)えば、おのずから三心(さんじん)は具足(ぐそく)する事(こと)にて候(そうろ)うなり。