前篇 第1 難値得遇(なんちとくぐう) #jodoshu #開宗850 | 法然上人御法語のブログ

前篇 第1 難値得遇(なんちとくぐう) #jodoshu #開宗850


前篇 第1 難値得遇(なんちとくぐう) 勅伝第32巻

 

 

それ流浪(るろう)三界(さんがい)のうち、いずれのさかいにおもむきてか釈尊(しゃくそん)の出世(しゅっせ)にあわざりし。輪廻(りんね)四生(ししょう)のあいだ、いずれの生(しょう)をうけてか如来(にょらい)の説法(せっぽう)をきかざりし。華厳(けごん)開講(かいこう)のむしろにもまじわらず、般若(はんにゃ)演説(えんぜつ)の座(ざ)にもつらならず、鷲峰(じゅぶ)説法(せっぽう)のにわにものぞまず、鶴林(かくりん)涅槃(ねはん)のみぎりにもいたらず。われ舎衛(しゃえ)の三億(さんのく)の家(いえ)にややどりけん。しらず、地獄(じごく)八熱(はちねつ)のそこにやすみけん。はずべし、はずべし。かなしむべし、かなしむべし。まさにいま、多少(たしょう)曠劫(こうごう)をへてもうまれがたき人界(にんがい)にうまれ、無量(むりょう)億劫(おっこう)をおくりてもあいがたき佛教(ぶっきょう)にあえり。釈尊(しゃくそん)の在世(ざいせ)にあわざる事(こと)は、かなしみなりといえども、教法(きょうぼう)流布(るふ)の世(よ)にあう事(こと)を得(え)たるは、これよろこびなり。たとえば目(め)しいたるかめの、うき木(ぎ)のあなにあえるがごとし。わが朝(ちょう)に佛法(ぶっぽう)の流布(るふ)せし事(こと)も、欽明(きんめい)天皇(てんのう)あめのしたをしろしめして十三年(じゅうさんねん)、みずのえさるのとし、冬(ふゆ)十月一日(じゅうがつついたち)、はじめて佛法(ぶっぽう)わたり給(たま)いし。それよりさきには如来(にょらい)の教法(きょうぼう)も流布(るふ)せざりしかば、菩提(ぼだい)の覚路(かくろ)いまだきかず。ここにわれら、いかなる宿縁(しゅくえん)にこたえ、いかなる善業(ぜんごう)によりてか佛法(ぶっぽう)流布(るふ)の時(とき)にうまれて、生死(しょうじ)解脱(げだつ)のみちをきく事(こと)をえたる。しかるをいま、あいがたくしてあう事(こと)を得(え)たり。いたずらにあかしくらして、やみなんこそかなしけれ。