上陸しました~!



端島の炭鉱町、その雰囲気は、私にとっては半分ふるさとみたいなもの。

というのも、私自身が炭鉱町、北海道の夕張で育ってるから。

 ※端島(軍艦島)に繋がる、見てきた景色
自己紹介のリンク集です。



1975年生まれの47歳、当時の夕張は、中央の東京に比べてインフラ整備が極端に遅く、端島最終と同じような雰囲気の中で育ってきました。

小学校は卒業まで「石炭ストーブ」で、自宅も小学校低学年まで「ダルマストーブ」

所得が低いように見えても、家賃、水道、電気などはタダ。衣食住の「住」は支払いの必要が無く、その代わり、地域全体が企業と一体になった大家族みたいで、自由や安心感が「今の常識」とは全く違うものでした。

父方はエンジニア家系で、父は炭鉱関連の火力発電所のオペレーター。炭鉱閉山とともに職を失い転職しました。

母方は炭鉱夫家系で、祖父の兄弟が皆、炭鉱事故死した事で転職。

祖父は「命を差し出して、養うカネを手に入れる」から「命そのもので養う」へ価値観を変えました。

私が、今、存在するのも奇跡です!



端島(軍艦島)

1810年(文化7年)に石炭が発見され、

80年後の1890年(明治23年)三菱が島全体と鉱区の権利を買い取り、本格的に石炭の発掘が始まります。

1960年(昭和35年)には5200人が住んでいて、人工密度は世界一、東京人工密度の10倍です。

炭鉱夫の初任給は50万円(現在換算で)、中卒で早くに子どもができても、炭鉱に来ればなんとかなる。

ただし、命を落とす可能性は常にあり、三菱発表でも約250人が仕事中の事故で亡くなっています。

夕張と同じ状況です。

1974年(昭和49年)閉山し、端島は無人島になりました。

この頃、私は生まれますが、夕張の最後の炭鉱は1990年、私が15歳の時に閉山しました。

このタイムラグによって、端島から伝わってくるものが、かなりあります。

強烈に印象に残っているのは、「AC公共広告機構」のTVコマーシャルで、放映されていたのが1982年、私が小学1年生の時です。

 



「いつか、ここ夕張も同じになるのか」幼少期へのインパクトは非常に大きなものでした。

※今になって、しっかり自分の価値観でCMを見れば「ウソ」があります。

※私には「印象操作・思考操作のためのミスリード広告」に思えます。

※CMの「石炭を掘り尽くして人々が島を去った」というのは「ウソ」です。

※国家のエネルギー戦略が石油に変わったので、端島の島民は強制移住になったのが「事実」です。

※端島の無人島化は、あくまでも外部要因のためです。

私の故郷、夕張は「大地」があったので、国家のエネルギー戦略が石油になった後は「放置」され、

代替で目指した観光産業などが失敗、「破綻した自治体」までの歴史が続いています。

長崎周辺には石炭はまだまだあり、夕張も同じ。

私が住んでいる千葉県の房総半島には天然ガスが確認されています。

エネルギーを「石油」と「電気」に限定するから、乏しいように思えますが、こだわらなければ未来の可能性も無限です。

このテーマは深掘りすると「オトナの事情(利権?)」に行き着いてしまい、政治的な話になります。

クルーズ船のガイドさんの案内は素晴らしく、この記事もガイドさんからの「気づき」で書いています。

長崎港を出港し、端島の手前「高島」まで、見える設備や島の暮らしなど説明が続きます。

いたるところに、「三菱財閥の岩崎弥太郎」、「グラバー商会のトーマス・グラバー 」の名前が関係者として出てきます。

幕末から明治維新、長崎が「日本文化の大転換」の拠点になっている事が実感できました。

端島に上陸して、圧倒される感覚は「人間の創造力」でした。

明治、大正、昭和と、島は拡張されていくのですが、増築されるビルの寸分狂わぬ施行、

陸から6000メートルのパイプラインを引いた「海底水道」、

屋上の幼稚園、子どもたちが遊んだ岸壁、地下にあるパチンコ屋などの娯楽施設、

土地の狭さからも共存して生活を楽しむ知恵に溢れていました。

そして、自分自身の幼少期の体験ともリンクして、雰囲気に圧倒されていました。

廃墟ブームや世界遺産で、珍しい観光としても十分魅力的でしたが、

この先の自分に、どう繋げていくのか?

「可能性は無限大」

人生そのものや、いろんな意味でね!

次へ、つづく



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