串本 大島 日米修交記念館 | HONDAのブログ

HONDAのブログ

ブログの説明を入力します。

5/28 串本観光でトルコ記念館に行ったついでに

(ほんま ついでに)立ち寄りました。

1853年のペリー来航の60年前にすでに アメリカ

の船が通商を求めて 来訪していたという歴史を知る

人はほとんどいない。

日米修交記念館(にちべいしゅうこうきねんかん)は、

日本初のアメリカ船来航地である和歌山県東牟婁郡串本

町の紀伊大島樫野埼に建つ町立の博物館である。

1853年のペリー提督の浦賀来航(黒船来航)があまりに有名

であるため、それ以前にも日米の交流があったことは知られ

ていない。実際にはアメリカ人として日本に最初に渡航して

貿易を申し込んだのは、それより62年も前の1791年、

ジョン・ケンドリックの紀伊大島への来航である。ボストン

の商人等がスポンサーとなり、アメリカ西海岸で原住民から

毛皮を入手し、太平洋を横断して広東で売りさばく計画が

立てられ、1787年にケンドリックおよびロバート・グレイ

を船長とする2隻が派遣された。毛皮の入手後、グレイは

予定通り広東で毛皮を売り西回りでボストンに戻ったが、

遅れてマカオに到着したケンドリックの取引は上手くいか

なかった。一行はマカオから米西海岸に戻る途中で日本に

寄港し、毛皮の販売を試みたものであった。しかし、当時の

日本で、毛皮は全くの価値を持っていなかったために交易

交渉は上手くいかず、数日後に日本を離れている。

ケンドリックの一行は、当初の計画から交易という明確な

目的をもって南日本に寄港する予定だったが、想定外の

悪天候に見舞われ、紀伊大島に漂着を装い、寄港すること

になった。一方、日本ではこの来航は偶然の「漂着」に過

ぎないと史実が隠蔽されてきた。これは、当時の江戸幕府

の統治下、よりによって江戸幕府の御三家であり、絶大な

権力を持っていた紀州藩が外国と密に接触するようなこと

が表沙汰になり、幕府の信用が失墜することを恐れたため

であり、紀州藩も武士を大島に派遣し、掃討する計画を

実行していた。

(記念館近くの 海金剛の絶景)

結局、ケンドリックらは、幕府から追手が向かっていること

を知らされたことなどで、紀州藩や幕府の役人などと交渉す

ること無く、天気の回復を待ってそのまま日本を離れている。

ペリー来航などと比べると重要な出来事とは認識されていない。

このため教科書にも掲載されておらず、日本においてこの日米

の最初の出会いはあまり知られていない。しかし、この出来事

以後、幕府の海外警備が更に厳重となるなど、歴史的に大きな

影響を与えている。また、数日間だけの大島と船員との交流は

詳しくは記されていないが、敵意がないことが分かると村民は

かなり友好的に接していたようで、船員に対し、米や薪などを

贈っていたことが、後の航海日誌で明らかになっている。

この経験が後 1890年の トルコ艦船の座礁沈没を

島民こぞって助けるという遠因となってるのでは?と

思ったりする。