1529年の 世界の分割「サラゴサ条約」 | HONDAのブログ

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第二次大戦後の 世界の分割を決めたのは 1945年の

「ヤルタ会談」が有名である。ロシア・ウクライナの戦争

が決着すれば 米・中国・を入れた(何とか)会議がきっ

と開かれることであろう。

1522年地球が丸いことが実際に証明された。

( スペインによって組織された遠征隊が、1519年、ポルト

ガル人探検家フェルディナンド・マゼランの指揮の下、

(欧州から見て)西回りでの東アジアへの航路の開拓を目指

してセビリアを出発。アメリカ大陸を通過して太平洋を横断

し、1522年、スペイン人航海士フアン・セバスティアン・

エルカーノにより世界一周航海が完成した。)

ことにより 地球規模での領土をスペインとポルトガルが

(かってに)2分割したのが1529年の 「サラゴサ条約」

この条約どうり 太平洋を分割した場合日本の 岡山あたり

を境に 西側がポルトガル  東側がスペイン ということ

になる1543年に 種子島に鉄砲を持ち込んだのが(なぜ)

ポルトガルであったかも説明がつく。日本の分割も 

(ポルトガル)と(スペイン)で話し合いがあったはずであ

るが、実際に日本に上陸してみると 戦国時代の武士を相手

に(インカ帝国)や(アステカ王国)(フィリピン)のよう

に 簡単に制服できそうもなかったので 1549年に 

キリスト教(カソリック)を布教し様子を見ようとなったの

ではないかと思われる。その後 1600年の関ケ原合戦で

 家康の天下となったところに (遅れてやってきた)プロテ

スタントの オランダ船団の アダムスが「サラゴザ条約」

についても 家康に全部バラしてしまったのではないかと思

われる。(その後のバテレン追放につながるのではないか?)

 

************(サラゴサ条約)*******

1529年の当時の2大 大国であった (ポルトガル)と

(スペイン)による世界の分割案「サラゴサ条約」を忠実に

守ると 当時の日本(ジパング)は東経133度の線は日本

列島の岡山付近を境に「西はポルトガル」「東はスペイン」

の領土ということになる。

1492 コロンブスの新大陸発見

 コロンブスが1492年にインディアスに到達したことを

受けて、スペインのイサベルとフェルナンドの両王は、

その土地への排他的権利を確保する必要があった。それは、

ポルトガルが、コロンブスの航海をポルトガルの支配領域を

侵していると主張していたからであった。

「トルデシリャス条約」まだ太平洋が未知であった時代

1494年、スペインとポルトガル両国間で成立した大西洋

の支配領域分界線。スペインがアメリカ大陸の大部分、

ポルトガルがブラジルを領有する根拠となった。

 ジョアン2世はスペイン出身のローマ教皇の裁定に期待で

きなかったので、部武力の行使さえにおわせながら、強硬な

態度に出て1494年にトルデシリャス(スペイン)において、

西経46度37分を分界線とし、そこから東で新たに発見され

た地はポルトガルに、西の地はスペインに権利が与えられるこ

ととなった。

  その時点ではまだブラジルは発見されていなかったが、

1500年に東廻りでインドを目指してポルトガルが派遣した

カブラルが、大西洋上で西に流されて偶然南アメリカ大陸の

東岸に到達した。西経46度37分を分界線の東側だったため 

ブラジルがポルトガル領に含まれることになった。18世紀に

なるとブラジル奥地に金やダイヤモンドが発見されたため、

ポルトガル人はさかんにトルデシリャス条約の境界線よりも

西方に進出し、アマゾン川両岸とラ=プラタ川東岸を獲得、

その晩年の1750年にスペインとマドリード条約を締結し、

ラ=プラタ川東岸を譲る代わりにトルデシリャス条約の分界

線を越えて西側に領土を大きく膨らませ、現在のブラジルの

領域をポルトガル領として確定した。

「サラゴサ条約」

1529年にスペインとポルトガルで協定したアジア(太平洋)

における植民地分界線で、日本の東経133度を通っている。

1529年にスペイン(カルロス1世)とポルトガルの間で

締結された、アジアにおける両国の植民地分界線の協定。

この条約で、スペインはモルッカ諸島の権益を放棄し、

ポルトガルに譲渡した。

「スペインのフィリピン進出」

 マゼランが到達していたフィリピンにたいしては、同じく

境界線の西側なのでポルトガル支配圏に入っていたが、先取権

を主張した。フィリピンへはメキシコから貿易風で太平洋を

横断することは可能であった、1560年代に北よりの偏西風

を利用して太平洋を西から東に横断することに成功し、

メキシコ←→フィリピン間の往来(いわゆるガレオン貿易)が

盛んになる。

※サラゴサ条約によれば、東経133度の線は日本列島の岡山

付近を通っており、スペイン・ポルトガルで分断される形とな

った。1543年にポルトガル人が種子島に漂着してからその

主張は示さず 交易を始めた。スペインは1584年に平戸に

来航した。