2005年2月「上海出張」と「夜霧のブルース」 | HONDAのブログ

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2005年

2月17日(木)朝10:00 ANA便=>上海  

午後 上海工場で F副総経理と打ち合わせ定宿の 

南華亭賓館(2号館)<上海市中山西路2525>に

チェックINN

2月18日(金) 浦東にある 伊藤忠上海にて 

日本への輸入アルミ材につき終日打ち合わせ。

夕食は 伊藤忠の招待で「上海かに料理」=>

「日本人カラオケ」 「カラオケ」は(日本人ご用達)

の店であるが、「できるだけ(夜霧のブルース)」は

避けてくださいとのこと。

夜霧のブルース(よぎりのぶるーす)>

ディック・ミネ1947年(昭和22年1月)にリリース

しこの曲は、1947年(S22年)に公開された水島道太郎

主演映画『地獄の顔』(松竹)の主題歌として制作された。

映画の舞台が中華民国(当時は中国国民党中国大陸

実効支配していた)の上海であった為、歌詞に上海の地名

が登場する。またこの曲は第二次世界大戦中の敵性音楽

追放などといった日本政府の政策により、芸能活動の場を

失っていたディック・ミネ自身にとっても復活を果たした

曲でもあり、彼の代表曲ともなった。

昭和 22年(1947年) 夜霧のブルース

作詞:島田磐也(C)
作曲:大久保徳二郎(C)

 (一)  青い夜霧に 灯影が赤い
     どうせ俺らは 独り者
     夢の四馬路か 虹口の街か
     ああ 波の音にも 血が騒ぐ

(476) 夜霧のブルース 石原裕次郎のナレーションと歌ー8 - YouTube
この「夜霧のブルース」には<夢の四馬路>という地名が

出てきます。四馬路(スマル)というのは<中央から4番目の

馬が通れる大通り>という意味で四番街というようなもの

でしょう。私が上海に行ったときには、四馬路は福州路という

名前に変っていました。<和平賓館>という古~~い、古都

上海を代表するホテル イギリス時代の建物これは戦前

<上海租界>と呼ばれた列強の治外法権的な歓楽街のあった

ところで、麻薬や娼婦やスパイが暗躍する魔窟だったのです。
四馬路(スマル)は主として欧米列強の租界、虹口(ホンキュ)は

日本租界だったところ、歌詞の<青い夜霧に>というのは、

黄浦江の河口に租界(上海ボンド)があり、テ-ムズ河口の霧

のロンドンのように霧が出やすく、そこに歓楽街の紅い灯、

青い灯が映って冒頭の表現でしょう。「上海帰りのリル」に

もこの地名が出てきますが、四馬路や虹口にいた女性はソノ

筋の女性ということになります。

<高級>という冠詞は付きますが。

この曲は 上海事変を想起させる(中国の人にとって)曲の

ようである。そういえば 大正10年生まれで 大陸に兵役

で上海事変を戦った 叔父さんが口ずさんでいたような記憶が

あるし 昭和10年生まれの 石原裕次郎も この歌が中学

生時代の愛唱歌だといっていた覚えもある。(日本人には)

よかった時代の上海を想起させ(中国人には)屈辱を想起さ

せる歌なのかもしれない。

 

 

2月19日(土)の朝の便で帰国だったのが 浦東に行く橋が 

夜の寒波で凍結して通行不能となり みんな便を夜便に変更す

るのに苦労していた。

(私だけ)伊藤忠の現地駐在の H氏に 「上海観光案内」を

お願いしていたので 昔の四馬路(現 福州路)の 茶店で 

お昼は飲茶をいただいた。 その後  河口(上海ボンド)あた

りの古い建物を案内してもらい地下のトロッコみたいなので

「浦東」地区に 出て「上海タワー」(東京タワーみたい)に

 登り 展望台から 上海をぐるっと1周見渡した。

(現在の虹口(ホンキュ)あたり)

「夢の 四馬路(スマロ)か、虹口(ホンキュ)街よ」は 

はるか下に 今はビル群となっている。

後 河を「渡し舟」で渡って 「あやしい漢方薬局で精力剤」

を購入したあと 南華亭賓館(2号館)<上海市中山西路25

25 に帰り 中国マッサージをした後 日本食食べて 

おとなしく寝ました。

 

2月20日(日)の 上海発便で大阪に帰着 この日は冬の

好天でした。