「スターリンもプーチンも同じ穴のムジナ」(「終戦直後」ソ連侵攻) | HONDAのブログ

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世界経済に影響を与え、泥沼化の様相さえ見せるロシアによる

ウクライナへの軍事侵攻。“ロシアの侵攻”といえば、日本との

関係では1945(昭和20)年8月18日の旧ソ連(ロシア)による

カムチャッカの占守島(しゅむしゅとう)侵攻がある。この侵攻

の結果、北海道の北方領土が実効支配されて現在に至る。

もうこれは 日本に帰ることは絶望的であろう。

 ソ連の侵攻があったのは8月15日に太平洋戦争が終わった

直後。当時、日本の領土は千島列島と南樺太まで広がってい

たが、日ソ中立条約を破棄したソ連が18日、カムチャツカ半島

の先にある、千島列島北東端の占守島に侵攻した。

 島では日本軍の守備隊が自衛で応戦。激しい戦闘となり、

多くの死傷者が出た。停戦命令を受けて21日に日本側が降伏。

ソ連軍は千島列島を占領し、北方領土(択捉島、国後島、

色丹島、歯舞群島)も、米軍がいないことを知ると9月5日まで

に全島を占領した。

 占守島での自衛戦を決断したのが、樋口季一郎(1888~

1970年)だった。兵庫県の淡路島に生まれたが、大垣市の

樋口家の養子になったことで樋口姓を名乗った。ロシア語が

堪能で軍では対ソ連関係の仕事に従事。当時は、札幌市に

置かれた旧陸軍第5方面軍の司令官だった。

ソ連のスターリンは北海道本島も狙っていたとされ、樋口の

決断がなければ北方領土どころか、日本が南北に分断さ

れていたかもしれない。

 ソ連軍が占守島に侵攻した8月18日は太平洋戦争が終

わり、日本軍が自衛を除く戦闘行為を停止し、完全撤退す

る日だった。

 樋口は、ソ連の侵攻に対し「(18日は)『戦争と平和』の

交替(こうたい)の日であるべきであった。『不法行動』は

許され)るべきでない。若(も)し、それを許せば、到

(いた)る所でこの様な不法かつ無智(むち)な敵の

行動が発生し、『平和的終』はあり得ない」と書いている。

樋口の孫で、明治学院大名誉教授の樋口隆一さん(75)

「8月15日以降の戦いは日本を守るための戦いだった。

結果的に北海道を守った。日本は分断されなかった」と

語る。ウクライナ侵攻については「あの時(占守島侵攻

)と同じやり方だ」と憤る。