追悼・野村克也
野村克也さんが死去 84歳 ヤクルトや阪神の監督をしたが
私的には 野村=南海ホークス S48年の 南海球団としての
最後の優勝こそ 野村克也の原点であると思います。
私が 野村を生で初めて見たのは1969年(S44年)8月13日
中学3年の夏休み お盆に入った日友達3人とこの夜
大阪府立体育館でおこなわれる G馬場・A猪木 VS
ブルーザー・クラッシャーの プロレス試合を観戦するのに
昼ごろから難波でうろうろしていました。当時の大阪球場の
レフト側は トラック等入るための通路が広く特別な衝立もな
かったので ナイター試合に備えて15時頃より南海ホークス
の選手が練習してるのが見放題であった。
その中でひと際でっかい打球を飛ばしていたのが背番号19の
野村選手でした。今考えると当時の南海は鶴岡監督が勇退した
あと飯田監督のもと戦後初の最下位に沈んでいる時期で
この翌年から野村が監督になる暗黒時代でした。バッチング
練習のあと レフト側で野村ー広瀬が遠投練習してましたが
中学生から見ても「すごい肩」で 100Mぐらいの遠投し
ていた記憶あります。
野村個人にとって、 S48年は 野球以外でも最初の妻子
との別居の末に 結婚前であったサッチーとの間に
7月に息子克則が誕生し人生最大の勝負の年であったと
推察します。1960年(S35年)野村は南海電鉄の重役の
娘さんと最初の結婚 1961年に息子が生まれ連続HR王、
1965年(S40年)には 戦後初の三冠王となり 野球も家庭
も準風満帆であったと思われます。1968年頃より 家庭
では別居生活(きっかけは野村の実母の逝去からとのこと
ですが)が始まり 1970年の 南海監督就任時は家庭的
には火の車だったと推察される。そんなときに出会ったの
が サッチー 彼女も米国人との離婚訴訟中であり あり
ていに言うとW不倫だった。監督野村としては1973年
(S48年)開始のパ・リーグ 2シーズン制は 王者 阪急
を倒せる絶好の機会であった。福本の盗塁を止めるために
チーム一丸となった組織的「クイックモーション」を導入し
当時は 先発・完投にこだわる投手起用を エース江本の
クローザーという起用を考えだした。W不倫の末に生まれた
克則のためにも「どうしてもパ・リーグ優勝」がほしかっ
たのは想像に値する。野村野球の原点は この 1973年
(S48年)のシーズンに凝縮されている
・・その後の名将 野村監督の原点の年 S48年。