「第8回 HONDAブラ(小田原城)」 | HONDAのブログ

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1/18(金)秦野氏の某銅管工場 K社の工場見学

にひっかけて 17日の夜 小田原駅前の東横INN

に宿泊し 8:30--11:30 3Hびっしり 小田原城

を 散策しました。

小田原城下絵図(文久図)

(小田原城の歴史)

小田原城の前身は、室町時代に西相模一帯を支配していた大森

氏が、現在の県立小田原高等学校付近の高台(八幡山)に築いた

山城でした。城の規模や築城年は明らかになっていませんが、

15世紀の中頃に造られたのではないかと考えられています。

15世紀末、伊勢宗瑞(後の北条早雲)が小田原に進出し、以後、

北条氏が5代約100年にわたって関東での勢力を拡大していき

ました。小田原城は、関東支配の中心拠点として整備拡張され、

豊臣秀吉の来攻に備え城下を囲む総延長9kmに及ぶ総構の

出現に至ってその規模は最大に達しました。しかし、天正18年

(1590)、石垣山一夜城の築城をはじめとする秀吉の小田原攻め

により北条氏は滅亡し、戦国時代が終焉を迎えました。
北条氏滅亡後、徳川家康に従って小田原攻めに参戦した大久

保氏が城主となり、城は近世城郭の姿に改修されました。その

後、大久保氏の改易にあたり、城は破却されましたが、稲葉氏

の入城の際に再整備され、城の姿は一新されました。貞享3年

(1686)に再び大久保氏が城主となり、小田原城は東海道で箱根

の関所を控えた関東地方の防御の要として幕末に至りました。

小田原城は、明治3年(1870)に廃城となり、明治5年までに城内

の多くの建物は解体されました。後に、小田原・足柄県庁・神奈

川県支庁の所在地となり、さらに明治34年には、二の丸に御用

邸が建てられました。しかし、大正12年(1923)9月の関東大震災

により御用邸のほか石垣もほぼ全壊し、江戸時代の姿は失わ

れてしまいました。その後、昭和9年(1934)に隅櫓が再建され、

昭和35年(1960)5月には廃城以来90年ぶりに市民待望の天守

閣が復興されました。続いて昭和46年(1971)3月に常盤木門が、

平成9年10月に銅門、平成21年3月には馬出門が完成しました。

小田原城は、昭和13年(1938)8月に二の丸・三の丸の一部が、

昭和34年(1959)5月に本丸と二の丸の残り全部が国の史跡

に指定されています。

 

8:30 東横INNを出て 西に歩くと旭丘高校(やけに学生が通

ると思いました)そこを南下すると右手に お濠が見えてきます。

ここをお濠に沿うて西に歩くと 城の正面入り口馬出門

ここから 城内に入っていきます。

赤線が 今回の散策コースです。

馬出門の堀は 中堀だそうで (外堀はすでに埋められている)

この城の規模の大きさがうかがえます。

次に控えるのは 銅(あかがね)門 

銅門を抜けたところにある小田原城歴史見聞館は、小田原城

や小田原の宿、北条氏の歴史をジオラマや映像で紹介した

資料館です。小田原の観光・イベント情報を検索、プリントする

こともできます。歴史見聞館の右手は二の丸広場です。江戸

時代には藩主の居宅が建っていたそうです。

本丸堀と常磐木橋(ときわぎばし)

本丸に続く常磐門

やっと 天守広場に到着 9時過ぎですが 誰もいない静かな

小田原城です。

まず目に飛びこんでくるのは、各地の天守閣の高さ比べ。首都圏

でランクインしているのは小田原城だけで、全国で7番目だそうで

す。ちなみに1位は大阪城、2位は名古屋城です。

休憩スペースでは、甲冑姿で写真を撮ることができます。これは、

童具足(わらべぐそく)という子供用の甲冑だそうです

天守から眺める 相模湾と三浦半島 ここが良地であるのが

よくわかる眺めです。

天守の西側を眺めると 小田原攻めで 豊臣秀吉が

この 鉄塔のあたりに作った「一夜城(石垣城)」・・これが

突然現れたときの 小田原城内の驚愕はいかばかりだった

かと想像できます。

天守閣をじっくり見学した後は 裏手側(北側)から城山をおり

ました。こういう城にくると S39年 遠藤実 作曲の

「青春の城下町」というのが自然と口にでてきます。

https://www.youtube.com/watch?v=K--YMCbzIOY

それを口ずさみながら、 裏手にある 二宮尊徳(金次郎)

神社に お参りしてきました。

ここから 城の裏手から北に歩くと JR東海道本線に

ぶち当たり JR沿いを東に向かい 元の東急INN ホテル

に かえってきたのが 11:30 (12000歩)でした。

小田原市がこれほど 小田原城整備に力を入れてるのが

感じられました。

我が故郷の 紀州50万石 和歌山城も 規模的にはここ

と同じくらいなのだから、もうちょいお金かけて整備すれば

関空に降り立つ 中国人の観光SPOTになるのにな、

と 思う次第です。