思い出のレスラー「大木金太郎」 | HONDAのブログ

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S40年代 馬場・猪木・吉村 と共に 日プロ四天王

と呼ばれた 金一こと 大木金太郎。

当時は 1933年(昭和8年)生まれ とされていたが、

実際は 1929年(昭和4年)生まれ で S40年には

すでに 36歳となっていた。

 大木金太郎といえば、頭突きというイメージが強い、頭突きほど

実践的で、観客に痛みが伝わる技はない。ジャブ的に頭突きを額や

腹に叩き込んだ後、「オッッチョッチョ」の掛け声とともに、ぶち

こまれる頭突きは 痛みが直接的に観客につたわった。

“韓流ブーム”などというものが来るとは予想すらできなか

った昭和30~40年代にテレビのゴールデンタイムでお茶

の間を沸かせた生粋の韓国人。本名は金一(キム・イル)、

プロレスラー大木金太郎である。
 長州力、前田日明、星野勘太郎、などプロレスラーに

“在日”が多いのはファンの間では常識だが、そもそも

“日本プロレス界の父”である力道山が金信洛(キム・シル

ラク)という日本併合下の朝鮮(現在の北朝鮮)生まれで

あり、これは一種の伝統かもしれない。
 プロレスラーとしてのスタートは30歳と、決して早く

はない。同郷の英雄、力道山に憧れた大木は1958年

(29歳)、漁船で密入国。翌年逮捕されるが、収容所で

力道山に嘆願書を出したことから、力道山が身元引受人

になり、当時日本プロレスコミッショナーだった自民党

副総裁 大野伴睦の口利きで釈放される。力道山は入門

した大木に「オマエは朝鮮人だから頭突きをやれ」と命

じたという。

(大木の 「パッチギ」)

大木金太郎というリングネームは 大きい 金一

(=太郎)で 大木金太郎となった(一説には 

だじゃれ好きの豊登が「おおきい金玉だろう」とい

うゴロでつけたという説もある)
 「黒人と朝鮮系は頭部が固い」というのは俗説に

過ぎないが、頭突きは韓国語で「パッチギ」、

街の喧嘩ではメジャーな技だった。大木は力道山の

言いつけを愚直なまでに守り、練習といえばただひた

すら、サンドバッグに頭を打ち付けた。
 現在のように高度な技の応酬や受け身など不要だっ

た時代である。数カ月後には前座デビュー、翌年には

読売ジャイアンツのピッチャーだった馬場正平(ジャ

イアント馬場)とブラジル移民からスカウトされた

猪木寛至(アントニオ猪木)がデビューし、大木を

含めて「若手三羽烏」と呼ばれるようになる。

(前述のように 年齢のサバを4つも読んでいたので

 大木は 若手というににはちょいと疑問もあるが)
 公式戦での猪木のデビュー戦は兄弟子の大木が務め、

7分6秒で大木の勝ち。 プロレスは基本的に試合前か

ら結果が決まっており、これを業界では「ブック」と

呼ぶのだが、前座試合にまで詳細なブックが決まって

いるわけではない。しかも、前座ではメーンの試合で

使われるような派手な技は禁じられており、どうして

も基本技だけで試合を組み立てなければならない。

そんな理由から前座こそ本来のプロレスだという人も

いる。力道山が道場で3人に「セメント(真剣勝負の意

。シュートとも)」をやらせたという逸話がある。

最初に馬場と対戦した大木は頭突きを連発して馬場を

戦意喪失に追い込み、これで馬場は猪木戦を棄権、大木

と猪木は寝技の攻防となり、腕がらみで猪木を破る。

(門茂男の回想談)
 この話の真偽はわからないが、この頃から大木は

「セメントでは強い」という評判だった。しかし、強い

からスターになれるわけではない。プロレスは興業で

成り立っている。プロレス界で言う最高のレスラーという

のは、最強ではなく、客が呼べるレスラーなのである。
 その点、大木には華がなかった。技も頭突きか、ねちっ

こい寝技が主体で、どうしても試合が単調になる。3人の

うちでは最年長(当時は年齢にサバを読んでいたが)であ

り、ルックスも地味。しかし、目の肥えた観客は大木にど

こか「本物の強さ」を感じ、支持していた。
 そんな大木にチャンスが巡ってきたのが入門から4年目

の1963年。大木は当時日本プロレスと提携関係にあった

ロサンゼルスのWWAを主戦場に頭角を現し、ミスター・

モトとのタッグチームでWWA世界タッグ王座を獲得する。
 ところが、63年12月に突然の訃報が届く。赤坂のナイ

トクラブ「ニューラテンクォーター」で暴力団の構成員に

刺された傷がもとで、恩師力道山が亡くなったのである。

大木のショックは計り知れないものだった。目標も後ろ盾

も失った大木は韓国に帰国し、「大韓プロレス」のエース

として韓国プロレスに活路を求めようとする。
そんな状況下での1964年10月、“鉄人”ルー・テーズへの

NWA王座挑戦が決まる。テーズにとっては消化試合のひと

つだったが、大木にとっては意味合いが違っていた。力道山

亡き後、日本プロレスのエース兼社長になった豊登が、もし

世界タイトルを獲ったら力道山の襲名を許してやると大木に

約束していた。力道山を神と慕う大木にとって、襲名は最大

の命題だった。しかし、デビュー5年目の日本のグリーンボ

ーイが、テーズに勝つシナリオなどあり得ない。そこで大木

は決死の「ブック破り」を仕掛けた。テキサスでおこなわれ

たこの試合後にテーズは自伝でこう回想している。「大木は

最初から試合をするつもりなんかなかった。大木に何があっ

たのかはわからないが、正直、あれはヤバかった」ブック破

りを察知したテーズは、ナックルパンチで大木の額を叩き割

った。大木はたちまち流血し、リングは血の海になっ

た。戦意喪失状態の大木をテーズはバックドロップで失神さ

せたが、それでも再度大木を立たせようとするテーズをセコ

ンドが止め、壮絶なシュート・マッチは終わった。大木は

入院までする大けがだった。

(20世紀 最高のレスラーといわれた ルーテーズ)
テーズはこうした試合を生涯に数度経験している。例え結果

は決まっていても、万が一それを無視してきた場合、王者は

セメントで制裁しなければならない。しかも二度と同じ事を

させないために、完膚無きまでに叩きのめすのが鉄則だ。

テーズは観客に見せるレスリングだけではなく、シュート・

テクニックも学んでいた。この時代、プロレスラーは本当

に強かったのである。現在はどうかわからないが…。
 しかしこの試合はむしろ関係者の間で話題になり、大木の

株を上げた。テーズはその無鉄砲さを評して「アトミック・

ボーイ」と呼び、レスラー仲間からは秘かに「セメント・

ボーイ」と呼ばれ、一目置かれることにもなった。しかし

力道山の後継者になるため、危険なシュート・マッチまで

仕掛けた大木の思惑とは裏腹に、日本プロレスが後継者と

考えていたのは、あくまで馬場と猪木だった。
力道山の死後、求心力を失った日本プロレスは豊登を社長兼

エースに据え、かろうじて命脈を保っていた。しかし、すで

にアメリカでヒールとして活躍し、力道山を凌ぐビッグネー

ムとなっていたジャイアント馬場が帰国すると豊登の立場は

微妙になり、昭和40年(1965)年末には生来のギャンブル好

きが祟り、放漫経営を批難されて日本プロレスから追放される。
 S41年にはルー・テーズ戦で力道山以来のインターナショナ

ル・ヘビー級王座を初防衛した馬場が名実ともにエースとなり、

日本プロレスは盤石かと思われたが、この直後に、アメリカ

武者修行から帰国して、馬場と並ぶエースとして売り出すこと

になっていたアントニオ猪木を、豊登がハワイ・ホノルルで

口説き落とし、東京プロレスを旗揚げする。
 その頃大木は、65年の日韓国交正常化と共に帰国、8月に

お手盛りの極東ヘビー級チャンピオンとなり、「東洋人が

白人を倒す図式」「テレビ最大のキラーコンテンツ」という

力道山の方法論をそのまま韓国に輸入する形で大韓プロレス

を定着させ、「パッチギ王金一(キム・イル)」として国民

的英雄となりつつあった。しかし、エース候補猪木を“略奪”

された日本プロレスは、その穴を埋めるため急遽、大木を呼

び戻す。馬場・猪木で予定していた2枚看板を馬場・大木に

修正することで局面を打開しようとしたのである。
 大木は、力道山を尊敬するあまり、長時間の“受け”から一気

に得意技で逆転する力道山スタイルから抜けだせずにいた。

馬場、猪木の進化したプロレスと比べると、大木の試合は古臭

く映る。しかも、日本人離れした長身の馬場、見事にシェイプ

された猪木と並ぶと、ずんぐりむっくりの大木はルックス面で

も見劣りした。しかし、猪木はすでに他団体の人間。人気は

どうあれ、大木の立場は確保されたかに見えた。
ところが、豊登の相変わらずのギャンブル狂いと、テレビ局

がつかなかったことが災いして東京プロレスはわずか3ヶ月で

倒産、S42年3月猪木が日本プロレスに戻ることが決まっ

てしまう。しかも猪木はノーテレビにも関わらず、ジョニー

・バレンタインと伝説的な死闘を繰り広げ「馬場に拮抗する

実力者」というイメージを引っさげての“出戻り”だった。
 馬場と猪木の2枚看板が定着すれば、どんなに実力があって

もナンバー3。居場所はないと悟った大木は再び韓国で活路を

見出そうとする。昭和42年(1967)4月、ソウルでマーク・

ルーインからWWA世界ヘビー級王座を奪取、韓国のプロレス

王として不動の地位を築く(ちなみに有名な大木の「耳そぎ事

件」が起こったのは昭和43年12月の仙台で。ブルート・バー

ナードの角材攻撃を受けそこねた大木の耳が半分ほど千切れて

しまったというアクシデント)プロレスファンならご存知の通り、

WWA選手権はベルト奪取というよりも一時的にベルトを“借り

た”形なのだが、これはプロモーターとしての大木がアメリカの

メジャー団体から信頼されていた証でもある。(3ケ月で王座

から陥落) しかし、大木は力道山の後継者になる夢を捨てき

れなかった。一時期、東京プロレスと同時期に旗揚げした国際

プロレスへの転出も囁かれたが、大木は愚直なまでに師匠の作

った日本プロレスにこだわった。折しも日プロは猪木・馬場の

黄金タッグ「BI砲」が人気を集め、第二の黄金時代を極めよう

としていた。やがて「BI砲」は馬場が日本テレビのエース、

猪木がNET(現テレビ朝日)のエースという形でライバル色を

強めていく。歴史に「もしも」という言葉は無いというが、

そのまま平穏無事に進めば、後輩である馬場・猪木の後塵を拝

しながらも、大木は日本プロレスの一選手という立場を守った

かもしれない。 しかし好事魔多し、である。事の発端は、

豊登時代から改善されない日本プロレスのドンブリ勘定

(この頃プロレスは興行とテレビの放映料で儲かっていた)

に不満を募らせていた猪木ら選手会と後援会長が改革案を作成

し、幹部の退陣を画策した事に始まる。

しかし、事を起こす前に馬場と上田馬之助(諸説あり)が

「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告

したことで事態は急変する。 騒動の拡大を恐れた選手たちの

寝返りで、昭和46年(1971)年末、最終的には猪木一人が

首謀者という形で追放され、翌S47年、猪木は新日本プロレ

スを旗揚げする。この追放劇の裏には馬場と猪木のエースの座

を巡っての確執もあったようだが、その後猪木追放でエース不在

となったNETのプロレス中継にも、日プロは馬場を出場させる

ことを内定したため、馬場は日本テレビに義理立てする形で日

プロを退社、日本テレビのバックアップを得てS47年10月

全日本プロレスを旗揚げする。 そうなると“漁夫の利”という

わけではないが、選手たちの大量離脱後に日プロに残った看板

レスラーは大木と、鳴り物入りで柔道界から転身してきた坂口

征二の2人だけ。図らずも大木は“お家騒動”の結果、入門以来初

めてエースの座を手に入れることになった。 大木は昭和47年

(1972)年末、ボボ・ブラジルと「頭突き世界一」を賭けた

インターナショナル・ヘビー級王座決定戦に勝利、坂口と組んで

ジン・キニスキー&ボボ・ブラジルを破りインターナショナル・

タッグ王座も獲得するなど、獅子奮迅の活躍を見せるが、馬場・

猪木が抜けた穴は大きく、興行もテレビ視聴率も凋落の一途を

辿っていく。 この時の大木の心情は察するに余りある。

デビューして14年、やっとのことでエースの座を掴み、死に物

狂いで頑張っても、ファンは相変わらず馬場や猪木の幻影を求

める。韓国では英雄になれたが、日本では常に馬場、猪木に次

ぐ“第3の男”。しかも、後輩の坂口に追い越され“第4の男”になり

かねない状況にまで追い詰められていたのだ。 しかし、大木は

チャンスを与えられても、馬場や猪木のような、プロレスができ

なかった。その姿勢はまさに大木のファイトスタイルそのものだ

ったように思う。ファンに飽きられても、ただ愚直に繰り出す

キーロックなどの単調な技とパッチギ…。それもこれも、全ては

尊敬する力道山の教えを忠実に守った結果だった。しかし、愛す

る日本プロレスを守るためには、大木は危機感をバネに変わるべ

きだったのではないだろうか。
 同じ頃、視聴率で馬場の日本テレビに水をあけられていたNET

も危機感を強めていた。そこでNETは、坂口を通じて新日本プロ

レスとの合併を打診する。日プロ追放の経緯もあって新日本プロ

レスにはテレビ中継がつかず、外国人レスラーのブッキングにも

困り、倒産は時間の問題だった。そういう意味で、猪木にとって

もこの合併話は“渡りに船”だったはずである。
 新団体の名称は「新・日本プロレス」。日プロにとっても新日

にとっても対等合併と言って良く、仕掛けたNET側に異論があろ

うはずもない。話は水面下で順調に進んでいた。しかし、発表の

直前になって合併は立ち消えになった。その原因を作ったのは、

誰あろう大木金太郎その人だった。
これにより 伝統を誇った 日本プロレスはS48年4月に崩壊

する、故郷を同じくする 力道山が創り 金一が崩壊させたのは

何かの因縁かもしれない。