1966年(S41年)の G 馬場 | HONDAのブログ

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1966年(S41年)のG・馬場を振り返る G・馬場にとっては

 最も脂の乗り切った時期であったろう。 1965年暮れに

力道山ゆかりの復活インターナショナル チャンピオンになり、

何かと 馬場人気に嫉妬していた 日プロ社長の豊登が

 公金横領で 日本プロレスを退社する 1月 に 28歳となった

 G・馬場は名実ともに日本プロレス の 大看板のエースレスラー件

 日プロ役員となる。 G・馬場を 不動のエースにするため

インターナショナル 選手権の2度目の防衛戦(実質的には初防衛戦)

の相手として 力道山と死闘をくりかえした、実力者ルー・テーズを

招聘する。 2月 インター防衛第②戦 ルー・テーズ(1966.2.28)

 ルー・テーズを 2-1で下し 力道山の正当な後継者 は G・馬場で

あることを 満天下に示すこととなる。 3月 日プロの仕打ちに豊登は

新規プロレス団体を旗揚げを 決意し米国からの帰国途上にあった

 A・猪木をハワイで ジャックする。 4月 第8回Wリーグ開幕 馬場と

手の合う Pモラレスや Wスナイダー Aハッサン等が参戦

5月 Wリーグ決勝で W・スナイダー破り初優勝 まさに TVプロレス

の 馬場時代の到来であった。 A猪木が 馬場に挑戦状を突きつけた

ものの まだ旗揚げも していないプロレス団体の 猪木の挑戦を

完全に無視していた。

7月 インター防衛第③戦 キラー・カール・コックス(1966.7.5)

を退け インター王座は安泰であった。 9月 東京プロレス旗揚げし

 A・猪木は Jバレンタインと名勝負 を展開し 世間から 猪木が

強いのか 馬場が強いのかと言われた ものの あいかわらずの

無視を通していた。

 10月 インター防衛第④戦 ゴリラ・モンスーン(1966.10.20)

インター防衛第⑤戦 ゴリラ・モンスーン(1966.10.28) NY時代からの

 ライバル Gモンスーンと2連戦を行い 防衛する。

 東京プロレスの息の根を止めるため、当時 まだ見ぬ強豪であり

アメリカの ビッグネームであった フリッツ・フォン・エリック を招聘する。

 11月 インター防衛第⑥戦 フリッツ・フォン・エリック(1966.11.28)

日本プロレスは 東京プロレスとの大阪興行決戦を制する。

12月 インター防衛第⑦戦 フリッツ・フォン・エリック(1966.12.3)

 結局 東京プロレスは事実上 12月で崩壊していく。

1966年(S41年)は G・馬場が 気力・体力・人気 でも 最盛期 の

年であった。

今思うと プロレス天国時代であった、 真剣勝負ではないとわかって

 いても 「プロレスラーは強い」という 幻想がまだまだ生きていた時代 であった。