S38年12月 デストロイヤーとヘーシンクの以外な関係  | HONDAのブログ

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Aヘーシンクといえば S36年のパリ 世界柔道選手権

で 無差別級で初の外人チャンピオンになり 日本柔道

に衝撃をあたえ S39年 東京オリンピックでも 雪辱

に燃える 日本柔道を返り討ちにした オランダの柔道家.

S40年の リオデジャネイロの世界選手権で優勝後

引退 その後 (お金)のため S48年 日本TVの誘い

に乗り G馬場の 全日プロレスで やりたくもない

プロレスに転向した。 

S38年に 力道山を大いに苦しめたのちG馬場の 

全日プロレスの客分にいた ザデストロイヤー.。

この2人は この S48年の ヘーシンクプロレス入団で

顔を合わせたように 思われているが。。

意外なことに S38年12月 東京オリンピック前に

大いに歓談する仲であったのは意外に知られていない。 

 

(東京オリンピックでの ヘーシンク)

 

(昭和381126日~12月7日)

日本プロレスのザ・デストロイヤー・シリーズ

に 2回目の来日をし 力道山の インター選手権に

いどんでいた ザ デストロイヤー。

意外にも 彼は アメリカで 柔道初段の免許を取得

していた。狭い部屋での セメントの格闘になれば 

柔道が最強だとも思っていたという。

 

S38年 の2回目の来日では   

■ 昭和3812月2日(月曜日)、東京体育館

NWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合

61分3本勝負)、レフェリー:沖識名

    力道山(2-1)ザ・デストロイヤー

    ①デストロイヤー(1741秒、体固め)力道山

    ②力道山(3分26秒、体固め)デストロイヤー

   ③力道山(7分33秒、リングアウト)デストロイヤー

    ※王者力道山光浩が19度目の防衛に成功する。 

■ 昭和3812月3日(火曜日)、大阪府立体育館

6人タッグマッチ(60分3本勝負)、レフェリー:沖識名

ザ・デストロイヤー&バディ・オースチン&イリオ・デパオロ

(2-0)力道山&豊登道春&グレート東郷     

(S38年頃はミステリアスだったデストロイヤー)

■昭和3812月4日(水曜日)

朝から 日本プロレスコミッショナー次長(講道館の有段者)

門茂男の案内で デストロイヤー&Iデ・パウロが

東京オリンピック前の柔道強化合宿中の Aヘーシンクを 

天理大学柔道場に訪問 した。白覆面 それも 力道山と

死闘を繰り返す デストイヤーが突然 合宿練習場に

現れたので 天理大学柔道場は 騒然となった。

デストイヤーは ヘーシンクとの乱捕りを希望したものの、 

オリンピック前であり 当時は プロとアマチュアの垣根が

厳然としていたこともあり、柔道着を着たヘーシンクは 

デストロイヤーとの 2ショットは決して 撮影させ

なかったという。英語が話せた ヘーシンクは 

デストロイヤー I・デ・パウロと 休憩室で 歓談し 

お互いの懇親を深め、この日の夜 大阪で 力道山に挑戦

する デストロイヤーに 裸の対戦相手にも有効な柔道の

「三角絞め」を 伝授したと言われる。(門の回想談)

大坂に戻った 門茂男に 力道山は しつこくこの歓談の

内容を聞いたという(門の回想談)

■ 昭和3812月4日(水曜日)大阪府立体育館

NWA認定インターナショナルヘビー級選手権試合

(時間無制限1本勝負)、レフェリー:沖識名

 力道山(2125秒、両者リングアウト)ザ・デストロイヤー

結局 デストリヤーは 柔道の三角絞めを使うことはなかた

※王者力道山が20度目の防衛に成功する。

(力道山最後のインター防衛戦)

この三角絞めは 現在の真剣勝負 UFCでたびたび

フィニッシュホードとしてお目にかかる。

 

その後 プロレス一行は近鉄特急で名古屋に移動

(当時は新幹線はまだなかった

■ 昭和3812月6日(金曜日)名古屋市金山体育館

オールアジアタッグ選手権試合

61分3本勝負)、レフェリー:沖識名

力道山光浩&豊登道春(1-0)

     ザ・デストロイヤー&バディ・オースチン   

 ※王者チームの力道山&豊登が6度目の防衛に成功する。

さらに 静岡に移動 

■昭和3812月7日(土曜日)、厚生年金浜松市体育館

6人タッグマッチ(60分3本勝負)、レフェリー:沖識名

力道山&吉村道明&グレート東郷(1-1)

ザ・デストロイヤー&バディ・オースチン&イリオ・デパオロ

 この日の夜行列車で 東京に帰郷 

 

■昭和3812月8日(日曜日)

午前九時半、リキ・アパートに高砂親方(相撲協会理事:

元横綱前田山)が大相撲のアメリカ巡業の相談に訪ねてくる。

この時、高砂親方にデストロイヤーをロスのボスと紹介し

同席させている。この時既に、ウイスキーをストレートで

七杯は飲んでいたとデストロイヤーが後に語った。 

その後、昼過ぎになると、高砂親方とデストロイヤーを

連れ赤坂の料亭「千代新」に場所を変え、酒を呑む。

当初予約していた「コパカバーナ」へや行かず、急に「ラテン」

へ行くと言い出す。この「ラテン」とは、

「ニュー・ラテン・クォーター」の事であり、昭和35年代あたり

までは力道山の身辺警護をしていた大日本興業のシマであった。

この ラテンで 力道山は 刺されることになる。

 

ヘーシンクが この10年後 お金のためとはいえ プロレス入団に

同意したのは 面識のある デストロイヤーが 全日プロレスの 

客分として 在籍していたというのは 大きかったのではないか?

と想像される。

一流は 一流を知る ということであろうか。。。