滋賀に「右遷したK君」 東京に帰る「Hさん」と
Hさん送別の意味もこめ TV真田丸最終回に合わせて
「天満橋~大阪城~真田丸跡地~天王寺七坂~逢坂夕日」
という コースで 「ブラHONDA」を (12/18)日に
挙行しました。
10:30 地下鉄天満橋駅集合でしたが、筆者はまず 地下鉄
堺筋線で 北浜についたのが 9:30 時間あるので大川の
見えるテラスで 喫茶モーニングをとる。今日は良い天気
だし 気温も 14℃くらいと ブラ歩きには絶好かと。
喫茶をでて 天満橋まで歩く 日曜の朝とあり行きかう人
もまばらであった。S40年の 紅白歌合戦で 吉永小百合
が「天満橋から」ちゅう 歌うたってたな・・と思ううちに
天満の「八軒家船着場」が見えてきた。
(現在の 八軒家浜 今は大川だが昔は淀川)
江戸時代には、同地は船宿などが8軒並んでいたことから
「八軒家浜」と呼ばれるようになり、京(伏見)と大坂を結ぶ
「三十石船」と呼ばれる過書船のターミナルとなるなど、
淀川舟運の要衝として栄えた場所を過ぎると すぐ 天満橋
である。
10:30 定刻どうり K君 と Hさん と合流し 大阪観光局
主催(参加費 \1500/人)の「大阪城案内」に 参加した。
(大阪城エリア散策)
天満橋を出発し ゆるいスロープを歩き まずは 秀吉時代の
石垣がのこる(あの渡辺二郎(BOXING元世界Cで今ヤクザ)
の母校追手前学園にいく。その後 石田三成の 屋敷跡を
通り京橋口から 城の内堀にはいっていく。昔なら 城の
横手から入る感じになるのかな?
極楽橋を渡り 天守内地にはいり 秀頼&淀殿 終焉の地
以外と 知らない場所に 石碑がたっている。
その後 天守前広場にて いろんな説明を聞く 今の天守は
大阪夏の陣で 焼け落ちたあと 徳川が建てた天守であり
秀吉時代の天守は もっと東側の隅にあったとのことである。
豊国神社で このツアーは解散となる (12:45解散)
その後 昼食をどこにしようかと考えて地図を見たら
JR森ノ宮が近いことに気付いた。 玉造口から
城内を出て S58年ごろ よくプロ野球を観戦にいった
今はなき 「日生球場」にいく前に立ち寄った「うどん」
屋 で お勧め「カレーうどん」を食べる。
得正 森之宮店
http://loco.yahoo.co.jp/place/g-gTo0y1nJrgY
ここで脱線するが 日生球場の思い出を書いてみると
日生球場 開設 1950年6月30日
閉鎖 1997年12月31日
(ドカベン香川の初打席・初HR)
*浪商高校で 牛島とのバッテリーで甲子園を沸かせた
ドカベン香川 1980年7月8日の対近鉄戦(投手・井本隆)
ではボールカウント0-3から日生球場レフト場外への特大の
初打席初本塁打を放った。
(大リーガー Dマネー事件)
*ドン・マネー 1983年オフをもってMLB現役引退を予定して
いたが、近鉄バファローズから2年契約の約2億2000万円、
住居の提供などの契約条件を提示され、引退を翻意して契約する。
入団前の近鉄球団担当者の説明やマネー自身も、いつも満員で
ある巨人の試合の様子がアメリカのテレビ番組で紹介されたのを
見た上で、近鉄でプレーすることに期待を持って来日したが、
本拠地の日本生命球場は老朽化しており設備・環境は劣悪、
その上当時のパ・リーグは観客も極めて少なかったことから、
その期待は大きく裏切られ、失望してしまった。あまりの待遇の
悪さに、マネーは4月下旬「金は全額返すから、アメリカに帰ら
せてほしい」と退団を球団に申し出た。しかし、このように酷い
待遇を受けていたにもかかわらず、退団会見では「球団に責任は
ない。すべてこの環境に慣れることができなかった私の責任だ」
と殊勝に語った。マネーを慕って共に近鉄に入団した
リチャード・デュランも、後を追うように退団を発表した。
(幻の南海ホークスの本拠球場化)
*1984年近鉄の本拠地 藤井寺球場にナイター設備化に伴い
近鉄の試合数が減少した1980年代後半、
南海ホークスは当時本拠地だった大阪球場を関西空港開港に伴う
難波地区再開発計画の一環として閉鎖、解体することを決定
したため、それに代わる新球場を堺市(有力候補として
中百舌鳥球場か堺大浜球場)に建設する計画があり、その球場の
建設および使用がなされるまで暫定的に日生球場を本拠地にする
ことが予定されていた。しかし、1988年11月にダイエーに
球団譲渡し、本拠地を福岡県福岡市へ移転したことで実現には
至らなかった。
筆者は この 日生球場には ひとしおの思い出がある。
日生球場は現在「もりのみやキューズモールBASE」という
商業施設となっており この周りを歩いて南下する
(玉造 エリア散策)
大阪城南の空堀があったという大阪女学院の 場所に至る(13:45)
長堀通りが 空堀の南端あたりであったようです。
空堀町を南に下るとすぐ 明星高校のグランド
が一段高い場所となっており ここが「真田丸」の跡地と現在では
認定されているそうである。 明星高校の東側にある 「心眼寺」
(心願寺 坂)
に 真田幸村の 墓所があり たくさんの人が訪れていた。
さらに 南に下がると 真田山公園があり このあたりが 真田丸
の 南空堀であったろうと推察されるが 現在ではそれを偲ぶもの
はなにもない。
(大阪冬の陣 構え)
そのまま南に歩くと 近鉄上本町駅につきあたる
今は近鉄は なんば さらに 阪神とつながって 尼崎経由で
神戸までつながっているが、その昔は ここが 上本町6丁目
通称「上六」として 近鉄電車の ターミナル駅であった。
千日前通りを 西に向かい 谷町九丁目に出る。(14:45)
「たにまち」というのは 現在 相撲の後援者の俗称で呼ばれるが
「タニマチ」の語源は
明治の初期に大阪・谷町七丁目で開業していた医者が大の相撲好き
で、力士が診察に訪れた際に治療費を受け取らなかったことから来
ている、という説が有名である。平成になって、この医師・
(1847-1902年)萩谷義則の孫が名乗り出て、話題となった。
(天王寺 七坂エリア散策)
谷町九丁目 と 四天王寺の 間に 大阪=坂 を体現できる
「天王寺七坂」がある。
これらの坂のある地域一帯はいわゆる「寺坂」であり、江戸時代に
大阪城下より移転させられた仏教寺院が多く集まっている。
大阪市内では比較的緑が多くのこっており、大阪市内唯一の
「玉出の滝」や戦前の大ヒット映画「愛染かつら」なども点在する。
俗称「夕陽丘」
北から順に
①真言坂
かつて真言宗の寺院が六坊あった
②源聖寺坂(げんしょうじざか)
坂の下に浄土宗・源聖寺がある。
③口縄坂
④愛染坂
坂の上に愛染堂があり 愛染かつらもここにある
「K君は しょうこりもなく」縁結びのお守りを買っていた。
⑤清水坂
清水寺の北側にある
⑥天神坂
安井神社((菅原道真が祀られている)真田幸村終焉の地
とも伝わる(NHK 真田丸の最後の場面はここでロケ)
真田幸村の像もある)へ通じる坂
⑦逢坂
一心寺の北側の 国道25号線の坂
逢坂に出たのが 16:00過ぎ 国道25号を渡り 一心寺の
境内に入り 墓所の高台から 通天閣越の夕日を見ていると
F永井の「大阪ぐらし」の歌が聞こえてきそうです
「赤い夕映え 通天閣を
染めて燃えてる 夕陽丘よ
娘なりゃこそ 意地かけまする
花も茜の 夾竹桃
がたろ横丁で 行き暮れ泣いて
ここが思案の 合縁奇縁
おなごなりゃこそ 願かけまする
恋の思案の 法善寺 」
(堺筋エリア 散策)
逢坂をおりきり 松屋町筋を渡り堺筋まで出ると 新世界 通天閣
が目の前に迫ります。(やっぱり ハルカスではなく通天閣です)
16:30 地下鉄堺筋線 恵美須町から 日本橋にでて
道頓堀の「かに道楽」到着が 17:00
さあ 「かにすき食べて」今日の疲れを癒します(足パンパン)
カニ道楽の ぞうすいはいつ食べても おいしい(19:30)
千日前の手前の 「月の法善寺」の 水かけ不動に 水をかけて
今回の 「ブラ歩き」は終了ですが 最近 外人が多くなりました
「めし」と書いた 看板ももう見かけることがなくなりました
F永井 の 「大阪ろまん」も 今は昔か。。。
「泣かへんおひとがむせび泣く
暮れてルージュの 道頓堀で
好きやねん 好きやねん
夫婦ぜんざい 笑うて泣いて
めし の看板 人情喜劇
好きやねん 好きやねん
咲くやこの花 大阪ろまん 」
K君・・・愛染かつらの お守りの効果で 良縁がきますように。
Hさん・・この2年9ケ月の 大阪ぐらし を生かして東京で
幸せになってください。
このブログは Hさんへのオマージュでもあります。
筆者 ・・ 今日の暮らしが また明日も続いていくだけです。
あらためて 上町台地を歩いてみて 大阪は大坂だと感じる
次第です。