馬場・猪木代理戦争の相手「ドリーファンクJr 」 | HONDAのブログ

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日本のプロレスは力道山が開祖であるが、その力道山の二人の弟子、

ジャイアント馬場、アントニオ猪木がいたからこそ21世紀まで存在して

いるのだと思う。

馬場と猪木、ここ40年くらいのプロレスはこの二つの巨大な価値観に

よって形成されてきたと言っても過言ではないだろう。

馬場と猪木、どちらを支持するかというのはプロレス・ファンにとって

とても重要な問題。どちらが強いか、どちらが優れているかは 

論外であるが。私自身何百、何千回とこのテーマについて多くの

プロレス者と語り合ってきたが結論が出たことはない。

しかし共通の対戦者、それぞれの好敵手との対戦をシュミレーション

しながら議論したりするから決して絶えることがない。
馬場・猪木の代理戦争といった様相。
やはり永遠のテーマなのかも。

その代理戦争で出てくるレスラーの代表が


ドリー・ファンク・ジュニア



おなじみ「グレート・テキサン」、元NWA世界ヘビー級王者だ。

ドリーは馬場、猪木が同時期に同じ条件で対戦した大物レスラーの

代表格、比較するレスラーとしては最適かもしれない。

1969年1月に Gキニスキーを破りNWAチャンピオンとなり
1969年12月と1970年8月 1971年12月に世界王者として来日。
その際に数日のうちに馬場、猪木とシングル対決を行っている。

中でも猪木との初対決、1969年12月2日の大阪での対戦はユセフトルコ

のストーリー作りもよかったこともあり今も語り草になっている名勝負だ。
ノーフォールで60分時間切れ引き分け。
「若獅子」猪木と「若き世界王者」ドリーの熱戦はプロレス新時代の幕開けと

言われた名勝負となった。

馬場も翌日ドリーと対戦し三本勝負を1-1で引き分けているのだが、

猪木ほどのインパクトを残したとは言い難い。
馬場はこの試合で後に馬場の代名詞となるランニング・ネックブリーカー

を初公開しているのだが…猪木には及ばなかった。


翌年1970年もドリーは馬場、猪木と数日間のうちシングルで対戦

している。1970年7月30日・大阪でまず馬場と対戦、引き分け

(筆者はリングサイドで見ていた)。
馬場自身この試合を生涯の中でも鮮烈に記憶に残るタイトな試合

だったと発言している。(自分の限界を感じた試合という意味で・・)

8月2日、福岡で猪木と対戦。
このときは1本ずつ取り合って時間切れ引き分け。


対ドリーに関しては二人はそん色ないものを残しているだろう。
(まずこの二人とそん色ない戦いを繰り広げていることがドリーの

凄さなのだが)

しかし、やはり「若き世界王者」ドリーの初お披露目の試合で熱戦を

繰り広げた猪木のほうが対ドリーに関しては軍配があがる

ような気がする。

ドリーはテーズのような絶対王者的なタイプでもなく、ロジャースなどの

ヒール型の王者でもない。

どんな相手でもきっちりと試合を組み立てる

70年代以降の王者のスタイルのパイオニアである。

そのドリーの王者としての実像を日本において見事に引き出したのは

猪木だったと思う。

馬場はすでにインターナショナル王者として君臨して久しくなっていた時期。
挑むというよりも守るのが馬場の持ち味となっていたし 明らかに

体力の落ちた馬場に名勝負を望むのは無理な相談であった。


3回目の来日は 1971年12月 東京で馬場と引き分け 今度こそ

猪木VSドリーを生で見れると 大阪の会場に足を運んだが 

「猪木の 会社乗っ取り事件」で 猪木は欠場 代打で ドリーと戦ったのが

元柔道日本一の 坂口征二 1-2でドリーに敗れたものの

私の目には 坂口の試合が一番迫力があったように感じたものだ。


ドリーは日本プロレス参加のあと馬場が設立した全日本プロレスのブッカー

となりにレギュラー参加。
猪木や坂口とのリングでの接点を断ってしまった。

馬場とドリーは全日本のマットにおいてもシングルで対戦しているが

後世に伝わるほどの名勝負ついぞお目にかかれなかった。

またドリーが外国人サイドというよりどちらかというと日本サイドで戦っていた

ことも「馬場ードリー」から名勝負をイメージさせない大きな理由だと思う。

やはり「初物」としてのドリーと白熱の名勝負を行い、交わる期間が刹那で

あったことが猪木とドリーの名勝負を引き立てた要因であると思う。
最初のインパクトですべてが決まってしまったのかもしれない。

長く交わることだけが絶対でなく、強烈なインパクトの先のストーリーを

イメージをさせることもプロレスの名勝負の条件、その典型的な例が

猪木とドリーの関係性のような気がする。


もしドリーが 馬場と組まずに 猪木&坂口と組んでいたとしたら

1975年あたりまで 毎年 名勝負数え唄が展開していたかもしれない。