【観劇記録】棄憶~kioku~(追記アリ) | 手上のコイン Blog

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『棄憶 ~kioku~』


2010/03/05(金) ~ 2010/03/11(木)
青山円形劇場のらくら閑劇記


脚本 野木萌葱(パラドックス定数)
演出 ノゾエ征爾(はえぎわ)

■Cast

清水優
大内厚雄
野中隆光
瓜生和成
保倉大朔

佐藤誓

有馬自由




■Story


1948年
第二次世界大戦から三年弱が過ぎたある日
あの部隊に居た男達に一通の手紙が届く。
封筒の裏には「ここ」の住所と
日時だけが記載されている。


差出人名無し。


その住所は旧陸軍軍医学校跡地。
現在は廃墟になっている「ここ」に
何故彼等は集められたのか。
──あの【棄憶】が蘇る。




前回の感想はこちら  ネタバレありますのでご注意を。


初めて観る役者さんも多数。


清水優さんは思った以上に熱演という印象があったのは、ラストあたりの芝居のせいかな。
全体的には抑えていると思う。変に誇張した部分はないし。ただ、少し誇張しても成立する役だとは思うんだけど。


大内さんは前回から引き続き同じ役。、相変わらず変にスーツ姿が似合い過ぎる(笑) 前回は演目変更で一週間しかなかったので、それがいい作用をしていた部分と足りなかった部分があって。
まぁ、今回は稽古期間があった分そのまんまプラス要素は若干マイナスに。マイナス要素はかなりプラスに。
客演では色々やってくる役者さんなのは知ってたけど。今回は喋り方がちょっと新鮮だった。といっても、ファンだから思う程度なんだけど。 大内さん普段と声の出し方が違う。特に最初、思った以上に抑えた生っぽい喋り方で少し驚く。初日だからなのか、作為的なものなのか。何気に色々試す人だからわからないなぁ~。見ている分には判別つきません(^_^;
でも。少しずつでも違った側面や切り口を見せられるとドキッとするよな。どちらにしても悪くない。
「何を考えているかわからない」感じは薄れたが、その分見ていると微細な感情表現をしていて役の心情がうかがいやすい。


野中さん。初めて見る役者さんでした。前作の役者さん(敢えて書かないが)が印象的だったので、つい比較してしまうけれど。野中さんの解釈もいいなぁ。なる程と納得させられました。役のどの部分に重点を置いて演じるかで、だいぶ印象の変わる役。


瓜生さん…。流石っていうかまんまっていうか(笑)
やっぱりこの方の芝居は好みではあるんだよなぁ。
かなりいいですよ。


しかし、有馬さん…いつ見に行っても、登場してから数秒間、有馬さんて気づかないんですけど。どれだけの顔を持っているんだ。恐ろしい…。
前回と同じキャストは大内さんと有馬さんのみ。有馬さんは前回よりサラッとした演技。そしてカッコ良かった。作り込む時間があったからか。共演者とのバランスか。演出が変わったからなのか。…まぁ、作為的なのは確か。カッコ良かったぁぁ♪←こればかっり。
ラストあたりのセリフ。前回は割とサラッと聞き流してたのに。今回は妙にぐっときた。


演出は、ナレーションがちょっとくどい気もしたが。概ね好き。前回はストーリーの緊迫感を重視したのか、劇的に観せることに重点が置かれている感じだったが、今回は人物重視。

その分劇的な感じや、生々しいエグい感じは、役者も変わったこともあるのか少し薄まったけれど、淡々と描き続けることで、登場人物の人生観やキャラクターを上手く浮き立たせている。ある意味、今回の方が見やすいかも。
演出として上手くない部分もあるけれど、役者の人間としての『見せ方』は今回の方が好き。


まぁ、グロい話が苦手、という人にはお勧めしにくいけれど。芝居としては間違いなく面白いです。円形劇場11日まで。


公演終了したので改めて。追記です。


なんだーかんだーで9公演ちゅう4回(^_^;
って見過ぎじゃい。


前回観て好きな芝居だったのでついつい。


前回は、この芝居は『辰沢』(大内さん)と『塔山』(今回は清水さん)の物語だと思った。
何故なら、彼らには『物語』があったから。

終わったのでネタばれ書きますが。
辰沢には、奥さんの病気と、その治療の金のためにGHQの手先になって犯罪に手を染める経緯が。

塔山には、公に出来ない任務で味方までもがペスト菌に感染し、引き上げ船に乗せられない彼らを命令によって殺さざるをえなかった経験や、中国人やロシア人の捕虜を牢屋に火をつけ焼き殺した過去が。


しかし、今回はちょっと視点が変わる。


里中という人には、一見、『物語』がない。全体的にこの芝居の登場人物が持つ『異様さ』も典型的な形で出てくるのみで。発言も、辰沢や他の部隊の生き残り幹部の心中を代弁しているに過ぎない気さえする。

しかし、
総じて考えると、棄憶という芝居そのものが『里中の物語』でもあるのだなと思う。


里中の人生。医学者として、部隊の幹部として。敗戦国日本のいち国民として。
彼の関わってきたものがここに集約されている。

金儲けや、自己保身、名誉欲。
そういった嫌な『人間的』要素を悪びれることなく持ちながら、自尊心と、探求心。日本人、そして医者としての誇りも誰よりも強くある。


人間は一面的ではない。
矛盾するものを抱えて、それでも『個』として在るということ。この芝居を観ていると、それをまざまざと感じる。


辰沢にしてもそうだ。
重い心臓病を患う妻を救いたいという強い欲求と、医者として、医学の発展を望む探求心。
一方で、そのためには手段を選ばず。生きた人間を切り刻んでも、罪のない一般人に毒を飲ませても『人殺しではない実験だ』と言い切れる冷徹さ。
そういった二面性が彼の中にも存在する。

辰沢が唯一、人間味を見せるのは自分の妻の話をする時だ。しかし、それは血の通った温かな、優しい想いとは違う。
むしろそれはひどく苦い。
辰沢の罪を無意識に悟って蔑み、恐れる妻。そこに心の安寧があったとは思えない。
逆に同朋たち。特に里中の言葉は、辰沢の罪を何らかの価値のあるものに、錯覚させはしなかったろうか。

人間の善良さに苦しめられ、人の狡猾さと残酷さに、救われはしなかったろうか。


塔山にしてもそうだ。
マルタと呼んでいた捕虜を『同じ』人間だと言い、辰沢や他の幹部の罪を断じる発言をしながら、彼もまた、日本人とそうではない者を差別視していることは隠さない。


…人間というのは、矛盾する生き物だ。
そしてそれでも、『人』は『人』なのだ。


里中の中には、しかし『矛盾』は少ない。もちろん罪は罪として自覚がある。しかしそれはあくまでも彼の中では『必要悪』である。
誰かが行わなければならない『悪』医学の発展の為には必要な『犠牲』
それは、倫理的には許される論理ではない。人道的に許されていいことでもない。
狂気。
それは、私たちの目から見れば、それに等しい。

だが。

同じ裁かれるならば、日本人の手でと願い。
犠牲によって得られたものを無駄にしてはならないと考える、誇りと使命感には、それを超えた部分での不思議な共感を覚えた。


『辰沢くん。死ぬんじゃないよ』


彼らの負ったものとは何だろう。本当の贖罪とは何だろう。

綺麗事では割り切ることの出来ない人間というものの宿業を思わされる。
そういう芝居だった。