【観劇記録】田園に死す | 手上のコイン Blog

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流山児事務所
『田園に死す』


2009年12月10日(木)~23日(水)
ザ・スズナリ


のらくら閑劇記-dennenn


原作 寺山修司
脚色・構成・演出 天野天街
音楽 J・A・シィザー
芸術監督 流山児祥


■Cast

伊藤弘子
栗原茂
木内尚
上田和弘
小林七緒
冨澤力
平野直美


木暮拓矢
坂井香奈美
藤村一成
武田智弘
鈴木麻理
山下直哉
荒木理恵

流山児祥


大内厚雄(演劇集団キャラメルボックス)
小川輝晃
深山洋貴(Studio Life)
さとうこうじ
沖田乱
中田春介
蒲公仁(個人企画集団*ガマ発動期)
眞藤ヒロシ
井伊美帆
井口和宣(徒紀の奏)
石橋真珠
岩崎愛
大島さなえ
小寺悠介
阪口美由紀(楽塾)
竹田邦彦
辻京太
富田遊右紀
習志野大吾(楽塾)
細江正和
マツウラタマエ(横浜未来演劇人シアター)
宮璃アリ(少年王者舘)
山﨑理恵子



■Story


父親のいない「私」は、恐山の麓の村で母と暮らしている十代の少年。楽しみはイタコに父親の霊を呼び出させて会話すること。「私」の家の隣には他所jから嫁入りした若い人妻が住んでおり、意中の人。
ある日、村にやってきたサーカス団員から「私」は、外の世界の事を聞かされ、憧れを抱く。「私」は家出を決心し、同じように生活が嫌になった隣の人妻と共に村を離れる。駅で待ち合わせ、線路を歩く二人……ここまでが映画監督になった現在の「私」が製作した自伝映画の一部。
「もし君がタイムマシーンに乗って数百年をさかのぼり、君の三代前のおばあさんを殺したとしたら、現在の君はいなくなると思うか」と批評家に尋ねられる。
……「私」は、少年時代の自分自身に出会う。映画で描かれた少年時代は脚色されており、真実ではないと言い放つ。「私の少年時代は現在の私の嘘だった」「作られた記憶の暗闇に少年が見たものは何か?」

(チラシより)



舞台上で繰り広げられたストーリーと、チラシに記載されたストーリーにはいくらか隔たりがある。それは恐らく(見たことがないのだが)本来の「田園に死す」に脚本家なりの多くの脚色が加えられているせいなのだろう…と、勝手に推測。


それにしても、面白かった。
全体的に、テンションの高い芝居。起承転結は一見したところでは判然としない。いかにもアングラ的。
それでいながら、どこかPOPでエンターテイメント性を秘めている。


人間の記憶というのは、その人間を形作っているけれど、果たしてそれは真実なんだろうか。


記憶違い。思い込み。無意識の記憶の改竄。
人に言われて初めて「そうだったのか?」と思い出す記憶や、もう忘れてしまったことを何度も繰り返されているうちに、再び自分の記憶として遡って創造されてしまったもの。強烈な夢と現実が混ざり合って判別のつかなくなってしまったもの。
本当の自分は、実は他に存在するのではないのか。
いや…。
自分はそもそも自分なのか。
私というものは、どこに存在するのだろう。


連続する記憶の積み重ねが「私」ならば、
その記憶に偽りが混入してる場合、それは私といえるのか。
虚構そのものが「私」であっては本当にいけないのか。
幻そのものが本当の自分であっていけないことがあるのだろうか。


虚構と現実をシャッフルしたような芝居を観ているうちに、そんな考えが頭を過ぎる。
ただ。
詩というものが「詩の作り方」を読んでも作れないように、
幻からは現実を作りだす事ができない。
私には血肉がある。痛みが、辛さが、楽しさが、嬉しさが。己の身に染みる。
それが「私」を形作る。たぶん、それが「私」というものなのだろう。


ただ、どうしても答えが出ないのは。
記憶を失くした場合はどうなんだ?ということくらいか。
いや。
それと、死んだ場合はどうなんだ?という問いか。


いずれにしても、何が飛び出してくるのか予測のつかない芝居で、すっかりそこを楽しんでしまった。
本来の寺山作品のテーマからは私の思考は少々逸脱しているのかもしれないが。
存分にその世界に浸かって楽しませてもらったことだけは確かだ。