今度は江戸狛犬図鑑で遊ぶ<番外2>富賀岡八幡宮 | 楽しい倫敦 おいしい倫敦 

今度は江戸狛犬図鑑で遊ぶ<番外2>富賀岡八幡宮

昨日、日曜の朝7時なんて時間に車窓から立小便男を見掛けてこれはびっくりだった。今どき暑苦しくスーツを着たおっさんが、門仲の交差点の横断歩道すぐ横の植え込みにで、歩道には背を向けても車道からは丸見えなのだ。しかも用が済んだら直ちにすぐそこの地下鉄入口へ? 駅にトイレがあるじゃん!

2024.7.15(月)

南砂 に行ったついでに立ち寄ったのが 富賀岡八幡宮

こちらには立派な 富士塚 があるので以前紹介しているが、

(山え登らないこと、とあるのが残念。)

享和元年(1801)とそこそこ古い銘があるらしい(でも読めない)狛犬が一対。江戸狛犬図鑑 には掲載されていないので番外とした。

少し「はじめ型」のどんくささを残しているのが味。

ここで我が 富岡八幡宮 とこの 富賀岡八幡宮 の関係を整理、

富岡八幡宮 はそのHPに「寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に御神託により創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて六万五百八坪の社有地を得た。」と記載しているのだがはっきり言って唐突で不自然。誰が御神託を得てそんな大規模な埋立てをしたのか書いていない。

かたや 富賀岡八幡宮 は伝承によれば749年、藤原鎌足の子孫、藤原豊成が下総に下向の折、創建したとされ、というところまではもっともらしい作り話の疑いが濃厚(*)だが、ここに奉斎されていた八幡神像

(**)を長盛法師が寛永年間に深川の地に移してこれが富岡八幡宮となり、その後こちらは「元八幡宮」とも呼ばれている、というのは事実っぽい。

(*)ここいらは江戸前期に開拓された砂村新田、砂洲みたいな何も無いとこにさらに一千年近く

   も前から八幡宮があったとはとても思えない。

(**)八幡神像は源三位頼政、千葉氏、足利尊氏、鎌倉公方基氏、上杉管領家、太田道灌と

   伝えられたとしているが、これも俄かには信じ難い。

やはり大元は 横浜市金沢区 にある 富岡八幡宮 であると考えるのが順当だろう。そもそも真っ平な江東区に岡が付く地名、社名があるのが不自然なのだ。

横浜の富岡八幡宮は元は源頼朝が摂津国の蛭子神を勧請して創建、その後八幡神を合祀したとされるもの。そして出典を書いていないし、富賀岡八幡宮とごっちゃになっている疑いもあるが、以下の神奈川県神社庁のまとめにはある程度筋が通っている。(但し、神社本庁の存在自体には大いに疑問あり。)

寛永の頃、徳川家光は深川の埋立事業を行ったが工事は非常に難航し、当宮に波除の祈願をし、のち無事に工事が完遂したので、氏神として富岡八幡宮を勧請したのが深川八幡の初めと伝えられている。時の富岡の地頭、豊嶋明重は家康より三代に仕え、家光の重臣であった事からも、深川埋立事業と富岡八幡宮御分霊とのいきさつが伺える。

 

まあ寺社の創建伝承とかは有難味を持たせるために知恵者が作文しがちだからそんなものと言えばそんなもの、話半分と割り切りましょう。