寺山修司の実験映画、迷宮譚、疱瘡譚そして審判 | 楽しい倫敦 おいしい倫敦 

寺山修司の実験映画、迷宮譚、疱瘡譚そして審判

演劇実験室 天井桟敷のメンバー募集に怪優奇優侏儒巨人美少女等募集とあったのはインパクト重視で見世物の復権を謳い文句にしてたからだろうが、怪優奇優はともかく侏儒、小人を募集するって言い方は今だったら強い非難を浴びそうなところ。

2024.3.6(水)

国立映画アーカイブ の 日本の女性映画人(2)1970-1980年代 で、次に観に行ったのが 九條映子/田中未知 が制作、音楽を担当する、と言うか 映画実験室 人力飛行機舎 の、と言うか 寺山修司迷宮譚疱瘡譚審判 の三本立て、今回のシリーズで出光真子(知らなかった人)の中・短編五本立てと共に 実験映画 に括られた1975年の作品、ほぼ半世紀前でこちらの学生時代だ。

アングラ劇団、演劇実験室 天井桟敷 を率いた寺山修司は何本も長編映画を撮っており、最初の1971年の 書を捨てよ町に出よう、74年の 田園に死す、あたりは映画館で観たように思うが(これより後は会社人になってもあり観てない)正直なところ記憶は曖昧。だって、ろくすっぽストーリーらしいストーリーも台詞も無い、時代の最先端を行く前衛映画だったから。この日の3本はその少し後なのだが、時代の最先端でも半世紀近くを経るともう前衛では無い、かも。少なくとも今の若い人には何のことって世界だろう。

でもそれぞれ短い中にもモティーフはあったりして、迷宮譚ドア

疱瘡譚 ははっきりしないが、

審判 、様々なシチュエイションで釘だらけ、釘を打つ音が響く。この3本だけは、小ホールのステージ上に設置した小ぶりな木製スクリーンに上映されたのだが、驚いたことにまだ音楽が流れる中で最後に白髪のじーさんが二人、道具箱を携えてステージに上がってスクリーンに延々と釘を打ち始める。と思うと一人が観客席に下りて観客を促して男女3人を釘打ちに加わらせる。知らなかったけど、そういうパフォーマンス込みの作品のようだった。(元天井桟敷の人たちだったのかな。)

いずれも難解ながら理屈はあるっちゃあるんだろう、あの時代は小難しい能書きを哲学的な顔をしてもっともらしく語るのがある意味流行りだったからだが、結局のところは感性、感覚だけだったかも。

九條映子 は東京出身で松竹歌劇団から松竹映画にも出た俳優から寺山と結婚、1970年には離婚したが引続き天井桟敷の制作業務を担った人。田中未知 も東京出身で秘書兼マネジャーとして寺山を支えるとともに音楽を担当、寺山が作詞したカルメン・マキの 時には母のない子のように を作曲した人でもある。寺山の離婚後は公私ともに彼を支えたとされているが、不思議な三角関係だ。

なお3本ともに出演者のトップに名前がある看板女優の 新高恵子 は東京の短大を中退して芸能界に入り、ピンク映画に出てた時に寺山と会って天井桟敷入りしたようだが、青森高校では寺山の1年先輩だったという奇縁があったそうだ。

天井桟敷の初期メンバーとしてはもう一人、審判の音楽を担当している J.A.シーザー もキーパースンだったか。寺山の死で演劇実験室天井桟敷が解散した後、演劇実験室◎万有引力を結成して活躍している彼はハーフのカルメン・マキとは異なり名前だけで100%日本人、東京デザイナー学院であの高田純次と同級生だったというのが面白い。

渋谷から明治通りを南下したとこだったかと思う 天井桟敷館 には、他の劇団の芝居を観にだけど一度行った。見ての通りの小さな小屋、早稲田小劇場も本当に小さくてあの白石加代子さんの怪演を唾が飛んできそうな間近に観たことがある。その点、唐十郎の状況劇場の紅テントは入れ物としては少し大きかったが、共通するのは観客の熱気だったか。もう学生運動は退潮しつつある時期だったけれど、だからかな、あの頃の若者はアツかった。