続・大河ドラマの舞台を歩く 第3回 鎌倉の西の防衛線① | 楽しい倫敦 おいしい倫敦 

続・大河ドラマの舞台を歩く 第3回 鎌倉の西の防衛線①

2024.2.26(月)

続・大河ドラマの舞台を歩く の第3回はなかなか渋い駅舎の江ノ電の 極楽寺駅 集合、鎌倉に何度も行っていてもこの辺りは初めてだ。この日はハイキングなどのグループが何と4つもここでかち合って大賑わいだった。

今の鎌倉にはインバウンドがうじゃうじゃ、加えてこれは三連休の真ん中で唯一天候に恵まれた土曜だから日本人もすごいもんだったが、このグループが向かうのは人影まばらなエリア専門、まず行ったのが駅の南東側すぐの民家の裏だから誰も来ない山内上杉氏の祖である 上杉憲方の墓と 伝わる七重塔。14世紀のものでも安山岩の七重塔は傷みが少なく、凝灰岩や砂岩の五輪塔などより新しく見える。

駅のすぐ北側が鎌倉の有力寺院としては珍しく拝観料不要の 極楽寺。無料でもきれいに整備されており、今は梅がきれいだったし、驚くべきは百日紅の巨木、満開になったらかなりのものだろう。

こちらは北条泰時の異母弟で幕府の要職を務めた北条重時が開基、今は然程大きな寺ではなくなったが、往時はこの奥に広がる谷筋に何十もの塔頭があったそうだ。今は小綺麗な住宅地に替わっており、ぽつんと小さな 月影地蔵堂 だけが残る。もとは現在地のさらに奥の谷である月影ヶ谷(つきかげがやつ)の鎌倉後期の女流歌人、阿仏尼(あぶつに)邸にあった地蔵像をこの地に移したものと。

少し戻って東側の急坂を上って今回のテーマ、鎌倉の市街地をぐるりと囲む尾根筋の内、西側の防衛線の勉強に。正面の右側のピークは 一升枡の塁 と呼ばれた大型防衛拠点の跡、左の小さなピークは 五合桝の塁 の跡で、五合桝の向こう側が極楽寺だ。山に囲まれていてもそれだけでは守れないから拠点が必要。

ここから尾根沿いに北に向かうと長谷の大仏の裏山ってことで 大仏切通し と呼ばれる道が続く。但し、この切通しは鎌倉時代のものではないそうだ。そもそも今に残る深い切通しは江戸時代に深くしたものだと名越の切通しの発掘調査で分かったとか。鎌倉時代はごく浅いもので、山越えを少し楽にしたような道だったらしい。

上記の通り、極楽寺の北側を五合桝の塁、一升枡の塁が守るのだが、南側がこの写真のピーク、ここにはかつて極楽寺の末寺の中でも有力だった仏法寺があり、新田義貞の鎌倉侵攻に当たっては大激戦場となった由。それが手強いのでその海っぺり、稲村ケ崎 を引き潮に乗じて突破して大勝利となった。

最後に立ち寄ったのがこれまた地味な 甘縄神明神社、知名度は落ちるが710年に行基が開創したとされる鎌倉最古の神社で、源頼義がこちらに祈願して源義家が出生したとも。そもそも源氏が鎌倉に根を張った始まりは、源頼義が平忠常の乱を平定してこの地に所領を得たこと、歴史的に重要な役割を果たしていた割りにここも空いていた。これは観光バスなど乗り付けるお隣りの大仏の高徳院の大賑わいとは対照的、初めて鎌倉に来た人の大半が鶴岡八幡と大仏には行くからだろう。

今回の3回シリーズはこれでおしまいだが、ついでに個人的に立ち寄ったとこについてはまた明日。