続・大河ドラマの舞台を歩く第2回久里浜の怒田城① | 楽しい倫敦 おいしい倫敦 

続・大河ドラマの舞台を歩く第2回久里浜の怒田城①

2024.1.29(月)

江東区のカルチャースクール、山城ガールむつみ 先生の 続・大河ドラマの舞台を歩く の第2回は横須賀線の 久里浜駅 集合、何年か前にフェリーで千葉に渡って鋸山に登った時にここに集まってあまりに殺風景なので驚いたが、それは横須賀線だから。東京から便利な早くて安い京急の久里浜駅はもっとずっと賑やかなのだ。

今回のハイライトは 三浦氏 の水軍拠点であった 怒田城。三浦氏が頼朝の旗揚げに呼応、駆け付けようとして川の増水で足止めを食い、続いて当初は平家方であった畠山重忠に攻められた際に本拠の衣笠城に立て籠もって敗れたが、和田義盛は三方を海に囲まれて難攻不落のここにと主張したとされている。

久里浜は縄文海進の時期にはかなり奥まで入り江が広がっていたことが確認されており、平安時代でもまだまだ深い入り江だったのに今は全然、それは江戸初期に江東区の今の砂町、砂村新田を干拓、開発した砂村新左衛門の最後の干拓、新田開発の成果だったというからびっくり。

で、いったんその中央を流れる 平作川 沿いに下って橋を渡ったのは、

まずは 若宮神社 に詣でるため。こちらはずっと後の戦国時代に千葉氏の一族であった臼井氏が移住、1531年に鎌倉から八幡神、応神天皇を祭神とする鶴岡八幡宮の本宮(上宮)の石段下右に祀られる応神天皇の子、仁徳天皇の若宮(下宮)を勧請したものだった。

その隣りにはこれも臼井一族の 宗円寺、両面地蔵と言って御影石の両面に浮き彫りされた地蔵が10体もあり、後三年の役で目を射抜かれた鎌倉権五郎景政がどうとかの言い伝えがあったが、それは時代的に無理がありそう。むしろ天保水滸伝の大利根河原の決闘で知られる飯岡助五郎がここらの出身でその父の墓、これは本物だから面白い。そしてこちらの墓地には臼井姓の墓が驚くほど沢山あったのだが、ここのすぐそば、なんと怒田城の城山下に生まれ育ったむつみ先生のクラスには臼井姓が何人もおり、今も町の一大勢力なんだとか。上記の砂村新左衛門の墓は久里浜にあるのだが、それはむつみ先生の一族の菩提寺でもあり、墓もすぐそばなんて話も。そんなことは大人になって初めて知ってびっくりしたそうだ。

で、いよいよ 怒田城、「怒田(ぬた)」は沼田から転じたようでかつては入り江の奥の沼地だったことを窺わせる。実際、何年前だか、むつみ先生が池にオタマジャクシを捕りに行ったそうだが、地名に舟倉が残るのも舟溜りであったことを示す、なのだが、この古写真のように馬蹄形で向こう側が海だったために難攻不落とされた城跡の原型は開発により相当損なわれている。右側(北西側)は住宅地だし、向こう側(海側)は京急の線路のために削られたりも。

それでも 本丸跡 に上がると際立った高さで確かに攻めにくい。入り江だった低地の先の山の向こうには衣笠城があった。

三の曲輪跡 なんか何と市民農園になってて入れない。ここは怒田城跡よりもむしろ縄文初期の 吉井貝塚 で有名だったそうで二の次になっている。

この後は東の浦賀に向かう古道を少し歩いて、最後の立ち寄りポイントが 真福寺、1528年開山当時のものというこの寺の本堂には波の伊八の欄間彫刻があり、観音堂には裳の端が魚の形になってキリスト教との関係を暗示する抱児観音があってマリア観音とも呼ばれているそうだが、どちらも公開されていないので残念。浦賀には隠れ切支丹がいたからそんなものがあったそうだ。

今回のツァーはここまででまた久里浜駅で解散したが、個人的にはもうちょっと続く。